行為の被害者が果たすべき責任としての赦し(倫理学の最終レポート)

 アーレントの責任論について考察する際、避けて通れないと思われる概念がある。それは行為(ドイツ語ではHandeln)である。アーレントにとって、行為という概念はあまりに重要であったので、彼女が責任について直接論じている箇所よりも、行為を論じている箇所の方が、アーレントの責任論を考察するうえでも、より核心的であるように私には思われた。そこで、本レポートでは、アーレントの『活動的生』における行為論の考察を通して、アーレントが責任をどのように捉えていたかを明らかにすることを目指した。

 アーレントは、主著『活動的生』のなかで、「行為することと、何か新しいことを始めることとは、同じことなのである」と述べている。次いで、アウグスティヌスの「始まりがあらんがために、人間は造られた。彼の前には誰も存在しなかったからである」という一文から考察を進め、最終的に「一個の誰かとして人間が創造されることは、自由が創造されることと一致する」と述べている。ここで含意されていることは、おそらく、カントが自由意志について『純粋理性批判』で述べたことと同じであると私は思う。曰く、「自然法則にしたがって経過する現象の系列をみずから開始する、原因の絶対的自発性、かくして超越論的自由が想定されなければならない」。ここでカントが想定した、行為以前のどんな現象にも縛られない、行為の絶対的自発性(あるいは超越論的自由)のことを、アーレントはアウグスティヌスにならって「新しい始まり」と呼んでいるのである。

 さらに彼女は、カントがこれと同じ箇所で「現象の系列の継起」と述べたものを、「行為のプロセス」と呼んでいる。行為のプロセスとは、行為を第一原因とする因果の絶えざる連鎖のことである。アーレントによれば、行為によって新しく始められたプロセスが、どこかで終わるということはない。彼女はそれについて、「たった一つの行ないにより解き放たれたプロセスが、文字通り、帰結の連鎖をなして百年、千年単位でえんえんと長持ちし、人類そのものが終焉を迎えるまで続く、などということもある」と述べている。

 では、行為という自由が人間に与えられていることを、私たちは手放しで喜んでいいのだろうか。アーレントはそれについてどのように考えていたのか。

 彼女は、行為の喜ばしい側面と同時に、その重荷についても詳細に論じている。アーレントによれば、行為には予測のつかなさと取り返しのつかなさという二つの重荷がある。彼女はこの二つの重荷について、制作との違いを強調しながら論じている。アーレントにとって、制作Werkとは、あらかじめ頭の中にあるイデア(ここでは設計図の意味)を最終目的としてなされる活動であり、したがって予測可能である。また、もし最終生産物がイデアとかけ離れていたとしても、それを壊して、もう一度最初からやり直すことができる。しかし行為は、それが因果の連鎖の果てにどんな帰結をもたらすのか、行為する者自身にも予測がつかない。また、行為が「どれほど命取りになるような予期せぬ結果をもたらそうとも、あとでそれをなかったことにすることは決してできない」。制作する人とは違って、予測のつかなさと取り返しのつかなさという二つの重荷が、行為者にはつねに付きまとう。

 したがって、アーレントは、行為に特有のこの重荷のために「行為する者は、つねに負い目ある存在となる」としたのである。というのも、たとえいくら行為の帰結は予測がつかないとしても、行為者がその原因であることに変わりはないため、もしその帰結が悪しきものであるとしたら、その責任を負う者として行為者が真っ先に矢面に立たされるからである。そして、おそらくこの負い目こそは、ヤスパースが「負い目を自らに引き受けようとする心構えがある、というのが、行動に際しての《責任》の真の意味」(『世界観の心理学』)と述べた際、思い浮かべたものと同じ負い目Schuldなのである。

 私の考えでは、行為のこの二つの重荷のうち、責任という概念について考えるうえでより重要なのは、取り返しのつかなさの方である。なぜなら、未来ではなく過去の出来事、すでに起こってしまった悪しき出来事について、問われるのが責任というものだからである。では、取り返しのつかない過去の悪しき出来事について、誰が何をすればその責任を果たしたことになるのだろうか。誰かが何らかの仕方で責任を果たさなければならないのは明らかである。なぜなら、もし責任を果たす者が誰もおらず、悪しき出来事をそのまま放って置くとすれば、悪しき出来事はさらなる悪しき帰結を引き起こし、悪しき連鎖は無限に続いてしまうからである。この悪しき連鎖を断ち切る行為こそが、責任を果たすということであるとするならば、アーレントはそのような行為として何があると考えていたのだろうか。

 それは赦しである、と私は考える。もっともアーレントは、責任という用語を用いて直接的にそう論じているわけではない。しかし、彼女は「取り返しのつかなさ(中略)に対する救済策は、赦すという人間の能力のうちにひそんでいる」と端的に述べている。アーレントによれば、「赦しは、過去に関係し、起こったことをなかったことにする」のであり、もし人間どうしが赦し合えないとしたら、「その帰結が、善きにつけ悪しきにつけ、まったく文字通りの意味で生の終わりまで付きまとってくるような、そのような行ないしか、われわれは為しえないことになってしまう」のである。

 さらにアーレントは、人間どうしが赦し合わなければならない理由について、ナザレのイエスを引き合いに出しながら論じている。アーレントの『マタイ福音書』第6章14-15解釈によれば、神は「われわれが負い目ある人びとを許すごとくに、われわれの負い目を許す」のであって、その逆では決してない。ここで注目すべきことは、アーレントは、人間どうしが赦し合わなければならない理由を、神の慈悲深さのような宗教的な事柄ではなく、行為に特有の二つの重荷に求めていることである。アーレントによれば、行為は予測がつかず取り返しもつかないため、行為する者は「おのれの為すことを知らない」状態にある。このような行為者の「罪過には、赦し、許し、忘却が必要なのであって、それというのも、何を為しているか知らずに為してしまったことの帰結から人間同士おたがいたえず解放されるのでなかったら、人間の生は一歩も前に進めないからである」。

 このことは、赦しと対極の間柄にある復讐が、人間事象に何をもたらすかを考えてみればいっそう分かりやすい。アーレントによれば、「復讐というのは、反作用つまり反動というかたちで行為」することであり、それゆえ「復讐という反応の仕方で行ないが推移していけば、連鎖反応はみるみる害悪を撒き散らし、未来に食い入って」いき、この「自動機構のプロセスに、行為する人びとを縛りつけ」てしまう。これに対し、赦しという作用は、このプロセスを中断し「赦す者と赦される者の双方を、解放して自由にすることができる」。そして、それ以前とは別のプロセスを新たに始めることができる。アーレントにとって、この復讐からの自由解放こそは、「たがいに許し合いなさいと説くイエスの教えに言い表されている自由」の意味なのである。

 このように考えていくと、アーレントは、取り返しのつかない過去の出来事について、その責任を果たさなければならないのは行為者よりもむしろ行為の被害者である、と考えていた、ということになってしまうかもしれない。もちろんアーレントは、何でもかんでも赦さなければならない、と考えたわけではない。たとえば、彼女は「人間があらかじめそれと知りつつ犯してしまった悪事に対して、許すという義務もまた成り立つというわけではない」と述べているし、また「罰することも赦すこともできない(中略)カント以来『根本悪』と呼ばれているもの」についても言及している。しかし、そういった意図的な犯罪行為を除く、行為それ自体の本性から生ずる罪過についてなら、行為者を赦してやらなければならない、とアーレントは考えていた。そしてこの意味において、彼女は、行為者よりもむしろ行為の被害者にこそ責任があり、被害者は赦しによってその責任を果たさなければならない、と考えていたように私には思われる。

アーレントの引用はすべて『活動的生』第5章「行為」からのものである。

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