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戦争と赦しについての一考察

 戦争の根っこにあるのは「おびえ」の感情である。自分のおびえが相手への憎悪になり、その憎悪が相手をおびえさせ、相手のおびえが自分への憎悪になる。この負の連鎖が戦争である。負の連鎖を断ち切るためには、相手の憎悪に対して、愛と赦しをもって報いなければならない。それは言葉で言うほど生易しいものではない。ナイフで刺されながら抱擁するようなものである。  赦せ、敵を愛せ、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ、という命令は、各人が自分自身に対してのみ下すことのできる命令である。誰も(聖職者でさえも)赦す行為を他人に強いることはできない。他人に対して「相手を赦せ」と命じる資格のある者はこの世に一人もいない。誰も他人の苦しみを知らないからである。他人の苦しみを知ることは不可能だからである。赦すか否か、赦したいか否か、赦すことができるか否かは、当人の心の中で問答されるべき事柄である。
 世の中に「閉じている人間」と「開いている人間」がいるとすれば、私は現在「閉じている人間」である。それを良しと思っているわけではまったくない。開いている人間(小学生の頃の自分含め)に対する憧れがある。開いている人間は人を疑うことが少なく、相手が手に何を持っているか(武器かもしれない)確かめもせず、両手を上げて抱擁の準備をしている。二人が抱擁するためには、どちらかが先にリスクを冒して好意を示さなければならないが、それをするのが「開いている人間」なのである(とはいえ、その社交性で人を欺す者もいないではないが)。
 宣伝文句はすべて「たんなる空談」である。承認を求める自己宣伝もそう。女の体目当ての男や、男のお金目当ての女が、心では好きでもないくせに、口先だけで愛を伝えるのと本質的に同種である。目的達成のための手段として用いられる言葉はすべて、言葉それ自体の本分をまっとうしていない。要するに「意味がない」ので、どれだけ言葉を浪費しても、何も語っていないのと同じである。一言一言が空っぽなので、ただうるさいだけだ。
 ネオリベラリズムの信奉者は「各々が自分の利益を追求することは、結果として、社会全体の利益を増大させることにつながるのだ」と平気で喋っているが、これは「黒を白と言いくるめる」というやつの良い例だ。本音では善悪など微塵も気にかけていないくせに、自分のやっていることの正当化のため、手当たり次第、それらしい言葉をかき集めているのだ。実際には、彼らが自分の富を増やせばその分、貧困に苦しむ人が増えるだけなのだから。当たり前のことだ! 経済学がどんな詭弁を思いつこうと、限りある資源を分け合って生きているのが私たち地球の住人なのだから。紙幣をたくさん刷ったらみんな豊かになれるわけじゃあるまい。バレなきゃ人のものを奪ってもいいと思っているし、自分のせいでどこかの誰かがのたれ死のうが知ったことではない、悪人になることを恐れるな、というのが彼らの本音なのである。
プロメテウス  幸せとは何か それが分からないことには 何も始められないでしょう? 最初の第一歩目から 正反対の方向へ歩き始め 後になって「あの一歩目から 間違っていた!」と気づいても 取り返しがつかないでしょう? 「人生を見切り発車するよりも 前もってよく考えなければ」と 私が言っているのは こういう理由によるのです エピメテウス  うーん! たしかにそうかもしれない そうかもしれない だけど正直な話 僕はすでにいまの暮らしで わりあい幸せを感じているし とくに立ち止まって考える必要を 感じないんですよ それに多分!  その問いの答えはいくら考えても 得られない種類のものなので あなたみたいにしていたら 一生を「考える」だけに費やして 何もしないことになりますよ ああ! それだけではない この世のものはみな つねに移り変わっているので ある場面を考えている間に 次の場面がやって来るという具合で 人に声をかける一つをとっても チャンスを逃してばかりいる そんな結果になりますよ! プロメテウス  あなたの言うことは 本当にもっともなことばかりだ もっともなことばかりだが しかし……
 アーレント『活動的生』の主張の一つは、「すべての事柄は、それ自体の本性に照らして、それ自身あるべき場所に収まるべきだ」というものである。ヘラクレイトス的「万物は流転する」が通用するのは「労働」(生命、有機体)の領分だけである。「行為」(人間関係の網の目)の領分に功利主義的「目的は手段を正当化する」を持ち込んではいけない。といった具合に。
 プラトン『テアイテトス』面白すぎる! 驚いた! 西洋哲学はプラトンの注釈にすぎない、というセリフが、過言でも何でもなかったことに興奮している。プラトン対話篇の素晴らしい点は、あくまで日常会話だ! ということ。読もうと思えば、読むだけならば、文章を理解するだけであれば、読み書きができる誰彼を問わず、読み進めることができる。

手をつないで進む

のっしりのっしりと もの・ことは進んでゆく あらゆる抵抗を気にもとめず どこへ向かうかも知らず 頭と心は手をつなぎ 一人の人間は進んでゆく 大人と子供がそうであるように よいことを目指して 出来事と思想は手をつなぎ 歴史は歩みを進めてゆく 目に見えるもの・見えないものが いつもしているやり方で 上っているのか 下っているのか(あるいは 同じことか?) 始まりから終わりへか ぐるぐる周回するだけか 単なる振り子の運動か 憶測は飛び交うも 真実は誰にも分からない 手をつないで進む それ以外は
 一番みじめなのは、すべきことをすべきことだと知っていながら、しないまま放置している自分を発見すること、あるいは、悪いことを悪いことだと知っていながら、それをやめられない自分を発見することである。いわゆる、意志力の欠如(アクラシア)状態。アクラシアは一人の人間のうちに「私が私自身と矛盾している」「私が私自身と敵どうしである」という分裂を生みだす。他人が下す評価よりもはるかに恐ろしいもの、それは自分が自分自身に下す評価である。
 他人への批判の行きつくところは、つねに自分への批判である。強い感情がともなっていれば特にそうだ。これは経験的に私がそう思うだけではなく、心理学的に避けられない事実である。たとえば、そういった他人への批判的心情は、自分のコンプレックス、劣等感、嫉妬心の裏返しかもしれない。もちろん、そうではないかもしれないが、そうである可能性を否定できない以上、批判の妥当性は失われてしまう。「おれは自分の立場を守るために他人を批判しているだけではないか?」という疑念を完全に払拭することは不可能である。自己防衛のために心が用意した結論ありきで、ものを考えたのではないか? 自分の負の感情を正当化するために、理性が不正利用されたのではないか? これらの疑問に「そうではない」と答えることは不可能である。心の真実は誰にも分からないし、当人には一層分からないからである。
 ラスコーリニコフがソーニャに向かって深いお辞儀をする場面、これに『罪と罰』の主題が尽くされているように思う。理性が、合理的思考が、人間なみでしかない知恵が、もっとリアリティのあるこの世的な人間の生に対して頭を下げる、という象徴的な場面。ジェーン・オースティン『高慢と偏見』のダーシーもそう。頭でっかちで、なんでも理性的にものの判断ができると思い込んでいる男が、心の深いところにある知恵で動いている他者と出会い、感情やら、心やらの現実に直面して、愕然とする(そして、少し人間的になる)物語。
 真理など誰にも分かりえないが、私たちがそれを探求する際、これだけは最低限守らなければいけない、それに反するようであれば、その意見は破棄しなければいけない、という基本的な要請が一つだけある。それは「自分を例外化するな」という要請である。あるルールを誰かに適用するなら、それは自分自身にも適用しなくてはならない。それができないなら、そのルールは破棄しなくてはならない。ソクラテスもカントも同じことを言っていた。そして、それだけが唯一確かなことであり、それ以上のことは誰にも分かりえないのだ。というのも「誰も知者ではありえない」以上「徳は教えられえない」から。そこから先は各人が自分自身と対話する過程で獲得すべきものである。もし私が親あるいは先生になるようなことが今後あれば、善悪については、子供にこう伝えたい。——僕が知っているのは「自分を例外化するな」ということだけだ。それ以上のことは誰にも分からない(神さまを別にすれば)。だから僕にも分からないのだ。
 私は「Aであり、かつ、ノットAでもある」みたいなことを平気で書く人を絶対に信用しない。 絶対に!  それをオッケーとして、ベラベラ喋っているような人には、真実に対する真面目さがないし、要するにとことん不誠実である(東洋的とか神秘主義とかうんぬんの問題ではない)。そういう人の書く文章には、理解するに値する何ものも含まれていない。矛盾したことを書いて、それには深い意図があるように見せ、自分の「考え」の体系を複雑にする。迷い込んだ人はその複雑さの中で右往左往するが、しかし、その迷宮には、そもそも理解可能な「考え」というものがどこにもないのだ。なぜなら、そういう人は自分の思想を伝えるのが目的ではなく、できるだけ他人を自分に繋ぎとめておき、思い通りにするのが目的なのだから。私は思うのだが、たぶん、カルトの教義はそういう手法で作られるのだと思う。  ——ああ! だけど、一体何が、どんな経験が、私にこんな文章を書かせるのか? 自分の身に(心に)起こったことを消化して、それを言語化できるまでには長い時間が必要だった。これは私の主観的な体験の一記述でしかない。個人的な強い感情というものは必ず人間を盲目にする。客観的に過去をふり返ることを不可能にする。だから自分の考えることも一向に信用できない。たとえば、早い話、私はその当時、病人だったのかもしれない。それがすべての元凶だったのかもしれない。何もないところに勝手に妄想を見て、勝手にそれに苦しんだのかもしれない。

芸術作品

プロメテウス あるいは芸術家にとって 最も恐ろしい光景 それは 内的な眼で見たアイデアと それを現実化する両手から 生まれた わが不死鳥が 貨幣と同じ扱いを受けている あたかも交換価値しか ないかのように 食糧と同じく消費される あたかも欲求に仕える もののように
 どんなに、もの知りで、賢く、流暢で、言葉の使い方が上手でも、まったく信用するに値しない文章というのがある。その特徴を言語化することは難しい。というか、そういう文章に出くわした時の私の激しい嫌悪感を表現することは難しい(要するに、これは個人的な感情の話、私事である)。一言で言えば、ペテンだ、詭弁だ、ということになる。真理を探求したいのではなく、自分を宣伝したいだけ、自分を正当化したいだけの嘘つきが書いた文章である。目的を達成するための手段としてならどんな言葉の出し惜しみもしない。心で自分がどう思っているかの吟味がなく、したがって、自分が嘘をついているかどうかを真面目に考えたこともない。「わたしは、肚で思っていることと、口に出していうことが違うような男は、冥府の門と同様嫌いなのだ。だがわたしは、自分が一番良いと思う通りに話す」(『イリアス』第九歌のアキレウス)。
 偽善者とは「まわりからは善人だと 思われ 、実際には悪人で ある 」ような者のことを言う。現象(どう思われるか)と存在(実際どうであるか)の食い違い問題は、ささいな問題では決してなく、善悪の中心テーマですらある。皆からすでに憎まれている悪人よりも、偽善者の方がよっぽど地獄行きにふさわしい。「偽善者に向けられる基準は古代のソクラテスの『あなたが現象したいような者で あれ 』ということばがピッタリだろう」。本当に気にかけるべきことは、人に見られる態度ふるまいではなく、人には見られない心のあり方のほうである。