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1月, 2020の投稿を表示しています
人間関係とは! 目をつむりながら手を繋ごうとするようなもの……(つねにそう)
人は誰でも心の奥深くでは確かなものを求めているのだと思う。求めていないときがあるとすればそれは、「これは確かだ」と思っているものが崩れ落ちる瞬間を恐れているがゆえであると僕は思う。

自分の書いた詩について

詩は「書けそう!」と思ったときに書きます。「ふつうの文章を書くのはめんどくさい(それなりに考えなきゃいけないので)けど、なんか書きたい……」というときに書いてみようとして書くこともあります。 自分の詩を読み返してみて「いいな」と思うことはあまりないです。でも「いいな」と思うものも(うぬぼれながら)少しあって、そういうものは積極的に読まれたいという欲求(!)があります。それで今日はそれらを紹介するためだけにわざわざやってきたわけです。 「いいな」とする、主な基準。①「そうだなあ」と思う(腑に落ちる、うそが書かれていない)、②すっきりしている(むだにあれこれ書いていない)。 ・ 玉ねぎを剥いていく ・ 彼らのおびえ ・ ゆれる ・ 太陽の夢 ・ 想い 自分の中にある「感じること・考えること」を自分の外に出したい、そしてそれを人に知られたいという欲求が、人間には(少なくとも僕には)ある。 そのためには多くのやり方があり、言葉を使う(話す、書く)のがもっともポピュラーではあるけれど、仕草なり表情なり視線なりで伝えようとする場合もあれば、絵を描くとか歌を歌うという人もいる。また文章を書くにしても、エッセイ、小説、詩などいくつか方法があって、どの方法が今まさに自分の中にあるものを外に出すのに適しているか、あるいはどの方法がもっとも自分の得意とするものであるかは、やってみないことには分からない。 その試行錯誤の場(詩を書くとか含め)として、このブログは大いに役立っている。(だから見るも耐えない文章を書くことがあるのだ。大目に見てほしい。)

マインド・ゲームス

昨夜、ジョン・レノンの「マインド・ゲームス」という曲を聴きながらちょっと泣いた。「僕たちはマインド・ゲームをしている 一緒にね/壁を押しのけたり 種を植えたりしている」云々。 泣いているとき、泣いている自分の姿はどんなのだろう?という、泣いている人間にふさわしくない疑問がわいてきたりして、急いで泣くのを我慢しようとした。しかし実際のところ別にどっちでもいいことである、泣こうが泣くまいが。(念のため書いておくけど、僕は涙もろい人間では決してない。) 人間の心というもの(とかいってほとんど僕自身の心の話をするんだけど)は、海みたいに途方もなくわけが分からないもので、それぞれの海を一人きりで泳いでいる僕たちは、自分の身体が沈まないようにしているだけで精一杯である。 海の中で僕たちは、手に負えないくらいたくさんの思考と感情に押し寄せられ、息がつまりそうになりながらそれらを必死に乗り越えようとする。理解しようとする。そしてようやく落ち着いた頃には、家にいながらにしてあらゆる経験を経てきたかのような気持ちになっているのだ(感慨深さと精神疲労)。 まったく正反対の思考・感情が同時に押し寄せてくるとき、それらに押し潰されそうになる(あるいは引き裂かれそうになる)自分がいる(「ジェラス・ガイ」を歌っているジョン・レノンはとても苦しそうだ)。ふたつの思考・感情は互いに矛盾している。その矛盾を解消しないということは、どこかで自分の気持ちにうそをつかなければ(ごまかさなければ)ならないということだ。自分の気持ちにうそをつかなければならないということは、人前でもうそをつかなければならないということだ。本当にそうなのである。矛盾を放っておくと、いつか大切に想っている人たちの前でもうそをつかなければならなくなるときが来る。 大切に想っている人たちというのは、自分のことを理解してくれるかもしれない数少ない人たちのことである。その人たちにうそをつくということは、必死に理解しようとしてくれている人たちから遠ざかっていくことを意味する。それは自らを寂しい場所へと追いやってしまう行為である。 僕は理解しようとしている。あらゆる種類の心の動きを、なんの誇張も矮小もない適切な言葉で書き表そうと努めている。正直になろうとしている。なぜならそうすることが、自分自身を自分ではないものに完
僕のことをよく知らない人、あるいはこのブログでしか知らない人に向けて宣伝しておきますけど! じっさいの僕には愉快なところがあるのです! 安心しきっているとき、いっさい萎縮する必要のないとき(最近では中高の友人にあったときか、その他ごく少ない相手に対してしかその機会はないけれど)の僕のおかしさ、ふざけた感じには、目を見張るものがあるのです(もっと広範囲にのびのびやっていきたいと思い、努力してはいるのだが……)。いまここでその証明ができないことが悔しい。なんなら中高の友人をその証人として呼びたいくらいです(たしかに彼はいつもふざけたことを言ってはみんなを笑わせていました、うそではありません)。一日中おもしろいことを言うことしか考えていない時期というのが! 僕にもちゃんとあったのです(これは一部の人たちにとっての学生時代の生きがいである)! とりあえずこのことは僕に関する知識として(実感はなくとも)ぜひとも持っていていただきたい。このブログが読者に与える僕の印象は、いささか真面目すぎる、卑屈すぎる。じっさいはもっと楽しいやつ(なはず)なんです、あまり分かっていただけないと思うけども……

恥の感覚・内と外

過去に自分のした醜態を思い出させるものに出会うとたまらなくなる。心の底では全く思ってもみないのに、ただそれが一番重い言葉だという理由で「死にたい…」という言葉が頭に浮かんできて、「それはうそだ、不適切だ」と思いながら急いで打ち消す。そしてすべて忘れるように努める。「いま現在は何も問題ないんだから、これからすることにだけ注意していれば大丈夫だ(あるいは何もしなければいい)」と言い聞かせながら。 「行動を起こす」というのは、それがどんな行動であれ怖いものである。どんなに懸命に考え、何度「これなら大丈夫なはず」と確認したとしても、やはり怖い。自分ひとりで考えている限り、間違いを犯していることに気づけないことがあるからだ。見落としがあるかもしれないし、そもそも前提から思いきり間違っていて間違った方向に考えを進めているということもある。不幸なことに、人は、自分がどんなに未熟な人間であるか、自分では気づくことができないのである。 「何とかして外へ」と思いながら行動範囲を広げてみるけど、そういった行動のすべてが他人から見れば滑稽なものとして映っているかもしれないと思うとき、たまらなく怖くて足がすくむのだ。「自分は正しく動けているだろうか? 恥をさらしていないだろうか?」という疑念が頭から離れないのだ。そして内側に引きこもることになる。「何もしなければ、何も心配する必要はない。安全だ」と考えながら、である。それは間違ってはいないが、一番大事なことを見落としている(あるいは見ないふりをしている)ことに気づかない。 「外へ向かっていきたいけれど、怖い」というジレンマとどのように決着をつければいいのか、僕は分からない。慣れない人と会うとき、僕は浮いているんじゃないかと思うことがある。歓迎されているように見えるがそれはうわべだけで、そのことに気づいていないのは自分だけなのではないかと心配になる。そしてそれがどこまで「実際にそう」で、どこから「自分の思い込み」なのか分からなくなるのである。近くで話をしているのに、僕だけが遠くにいるように感じられるのだ。

雑文(新しいことは何も書いていないのだが)

どんな人も自分のことしか知らないし、自分の経験したことしか記憶にはないし、自分の考えることしか考えることはできない。それらを踏まえると(それらとは別に道徳とか常識とか社会的理想とかはあるにしても)人はほとんど自分の考えることを自分でコントロールすることなんてできないだろうと思う。 どんなに立派な人も、みっともない人も、生まれてから現在にいたるまでの連続を生きてきたわけで、その人にとってはその状態がもっとも自然なのである。悪くなっていく場合でも、徐々に徐々に悪くなっていくのであって、それに気づくことは難しいわけで、気づいたとしてももう手遅れだったりするわけで、だとしたらどうやってその変化に抵抗することができるだろうか? 他人の脳みそ(ふつうの脳みそ、立派な脳みそ)のことをちゃんと知ることはできないのにも関わらず、である。 ひとりの人間を理解し尽くすためには、その人自身になりきるだけでも足りなくて、神さまくらい全知全能の存在になるしか方法はない。だとしたら、分かったような姿勢で他人を評価(非難)することなど絶対にしてはいけないのである(自戒を込めて)。ただ想像力を膨らませること(しかもその想像力はできるだけ偏りのない公平なものでなければならない)しかできることはない。 それとは別に、誰と仲良くするか(したいか、するべきか)という問題はあって、これに関して僕はまだちゃんとしたやり方を得ていない。僕がなんの欲もない人間であったなら、誰とでも分け隔てなく仲良くするべきである(あるいは誰とも仲良くしない)。なぜなら「こいつは悪いやつだから仲良くしてやらない!」という言い訳(一般的な善悪を引き合いにした正当化)をすることはできないからだ。だから「この人とは仲良くするけれどあの人とは仲良くしない」という判断をするさい、完全に自分の問題(自分の欲とかエゴとか偏見とかの問題)として考えなければならないのである。 僕はというと、よっぽどの仲良くしたい理由があるか、自然に仲良くなってしまった場合を除いて、基本的に人と仲良くなろうと思うことは(こんなにはっきり言っていいものか分からないが)ない。些細なきっかけを重視して(何かの縁だと思って)誰とでも仲良くなってみよう、そうしたら人間関係が豊かになるかもしれない、と考えた時期もあったが、そういうやり方は僕

内的世界の探求

自分の外側にあるものが、自分の内側にあるものに入っていくことによって、人は楽しいとか苦しいとかいった感情を抱くことができる。このとき、外側にあるものは僕たちに「何らか」の印象を与えるけれども、その印象からどういった感情を引き出すかは、受け手側である僕たち人間に、いくぶん委ねられている。 物質的な富を充実させても、それを受け取る人間の精神的な営みが貧しければ、求めていたものは得られない。ここで言う「物質的」というのは、必ずしも物質(お金とか食べ物とか)のことではなく、社会的地位とか友人とか音楽とかいったものまで含む、現実世界のすべてのことを言っている。自分の外側にあるものすべてのことである。 逆にいえば、自分の内側にあるもの(精神的なもの)をいじくりまわして(?)、こちらが感じたいと思うことだけ感じることができるような内面を手にすることができれば、物質的な富を充実させる必要は一切なくなる(夢の中で暮らしているような状態)。でもこれはドラッグとか瞑想とかに走る極端な例であって、現実的な手段とは言いがたい。 しかしこの文章で僕が言いたいのは、自分の外側にあるものと内側にあるもの、その両方が、同じだけ大切なのであるということだ。つまり、僕たちはふつう幸せになりたいと願うとき、お金なり恋人なりが必要であると考えるけれど、それらとまったく同じくらい必死に、それらから「何らか」を受けとる自らの内面についても考えなければならない。 (外的)世界ではなく、内的世界の探求……。「私は何を感じ、考えているのだろうか」から始まる。それは「私とは一体なんなのか?」という形をとることもある。しかしこれらの段階では、まだ、疑問を投げかける「私」と投げかけられている「私」との間には適切な距離がある。それを近づけていくと最後、このふたつの「私」が重なり(統一され)、「私」を忘れる(我を忘れる)瞬間に出会うことができる(「目を閉じて 僕はいなくなるんだ ただ風の音を聞くだけの行為になるんだ」)。そういう瞬間を増やせば増やすほど、人生は感慨深いものになるのではないでしょうか(?)。(インドに行ってみたい、いつか必ず……。)
なんかこのブログ、あれこれいろんなことを言ってるふうだけど、実際はただものすごく遠回しな言い方で「たすけて〜」とわめいてるだけ、という気がしてきた。 ヘルプ! 誰か助けて ヘルプ! 誰でもいいってわけじゃないんだけれど  (←これが問題解決をめっっちゃ難しくしている) ヘルプ! ねえ 誰か助けて ヘルプ! 今やることなくて、それで眠くもないから本を読もうとしたけどそれもダメで、そういうときが一番こたえるのだ。だからどうしようもなくて何かしら文章を書いてみようと思って文章を書いているわけです。だから書くことはなんでもいいのです。(事実を書くことは頭を使う必要がないのでらくだ。) ・散らかったら掃除をすること!(一気にではなく、常日頃から。) ・自炊してビールを飲むことにはまっている。(自炊だけでは続かないし、ビールだけではそこまで心惹かれないが、ふたつが合わさるとなんて魅力的なのだろう。) ・熱い飲み物が欲しいときはコーヒーかココアか紅茶を飲みます。 ・アラジンストーブはかわいい。ルンバはそこまでかわいいと思わない。(進歩にたてつく平凡な大学生が言いそうなことだ。) ・一軒家にひとりで住むのは、わりと楽しい。(一軒家にひとりで住むことが理由で寂しいと感じることはない。寂しいときは一軒家だろうがワンルームだろうが関係なく寂しいだろう。ただ、ときどき「こんなに広いんだからあと一人か二人くらい住みにくればいいのに」と思うことがある。しかしエアコンないので夏に住むのはおすすめしない。) ・朝に聴くといいアルバム:ビートルズ『リボルバー』(ビートルズは『ラバー・ソウル』から『ザ・ビートルズ』までのアルバムばかり聴いている。飽きない。だからまだ『ヘルプ!』以前と『イエロー・サブマリン』以後のアルバムに手出しできていない。) ・夜の東京を歩くときに聴くといいアルバム:オザケン『犬は吠えるが〜』 ・すごく名盤らしいから聴いていて、最近なじんできた:ビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』(それより前に発売されたビーチ・ボーイズのアルバムもいくつか聴いてみるんだけど、どのアルバムも似たり寄ったりに感じられて、いまいちなじまない。) ・踊ってばかりの国の「ナイトライダー」という曲がすごく好き!(夜に聴くと心
基本的な姿勢 ①弱くあること。 ②それでいて、同情を求めないこと。 ③一人きりで生きていこうなどと思わないこと(寂しいので)。 『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を通しで聴くと元気が出る。このアルバムはたぶん(たぶんだけど)「励まし」のアルバムである。力強い励ましのアルバム! 偉大な……

エゴイズムについて

自分が何かを求め、手に入れようとすることのせいで、他の誰かが不快に思ったり、傷ついたり、争いが起こったりするかもしれないというとき、それを求めることを徹底的にやめてしまおうと思うことがある。自分のエゴイズムをなきものにしてやろうと思うことがある。しかもそれを誰に打ち明けることもなく、自分の中だけで消化させてしまうのだ。不快に思う(傷つく)人が、実は僕が心のうちでは軽蔑しているような人間で、別にその人と僕との関係なんてどうなってもいいと思っていたとしても、である。それはある種のプライドなのかもしれないし、すでにまあまあ恵まれているから誰かを犠牲にしてまで欲しいものを手に入れる資格なんて僕にはない、と考えているからなのかもしれない。自分のエゴイズムに自覚的である以上、それを押し通すことは果たして正しいことなのだろうか?とあれこれ考えているうちに、もうどうでもよくなってきて、すべて他の人が望むような形になってしまえと思うのだ。後になって「あいつは利己的なやつだ」と後ろ指をさされたくないからなのかもしれない。「僕はまったく利己的ではない」ということを他人に証明してやろう、それによって僕の評価を高めてやろうという、あくまで利己的な動機に基づいているのかもしれない。とにかく僕は一人きりでもやっていくから、争いごとや馴れ合いはきみたちで勝手にやっててくれ、と思うことだってある。 もちろん自分の中でふたつのことを天秤にかけて、人を傷つけることになったとしても僕はそれを求めます、ということはたくさんあるだろう。そういうとき、僕は自分の内面の葛藤(天秤のこと)を少しも外に出すことなく、無慈悲な態度でそれを手にするだろう。(「僕だってたくさん悩んだのだ」という言い訳を聞きたい人間はどこにもいないからだ。)手に入れたあとはひたすら黙っていなければならないのだ、少なくとも、公(おおやけ)には。それは僕が犠牲にしたものに対する、ひとつの礼儀である。
孤独であること、秘密であること、自由であること。これらはすべて、同じひとつの状態の別の言い方にすぎない。

2019年度のふりかえり

四月からは物理に明け暮れる日々を送ることになるだろうから、三月までに物理以外でやりたいこと(興味を持っていること)をできるだけたくさん済ませておきたい。それは主に本を読むことである。また、東京に出かけることである。 あることに強く心惹かれているのに、その全体像も分からないまま他のことに従事しなければいけない、というのは僕にとってかなり苦しい。僕は物理だけ、つくばだけで四年間を費やし、他のことを少しも知らないまま学生を終えてしまいたくはなかった! この一年、本を読んだり東京に出かけたりしたことで、それらについてくわしくなったとは全く言えない。しかし、僕が四月からつくばで本腰を入れて物理を数年学んだあと、必要であれば再び文学なり哲学なりにのめり込んだり、東京での楽しみを広げたりすることが容易にできるくらいには、それらについて知ることができたと思っている。 また、この一年間で僕は、少なからず明るくなることができた。未来に何の楽しみも待ち受けていないと感じているのにも関わらず苦しい努力を重ねなければならない現在ほど、この世界において絶望的なことはない! どうせ頑張っても楽しいことなんかないと思いながら大学に行くよりも、いま現在だけでもなんとか充実させようと決めた僕の判断は、賢明だったかどうかは分からないが、少なくとも「そうするしか他に方法がなかった」と言える選択ではあった。しかし今では、少なからず明るくなったことで、将来に対する期待を持つことが(いくぶん)できるようになり、朝起きて授業を受けてという単調な日々(おそらくそれなりに一人きりの日々)を耐えることができるくらいには前向きな人間になっていると思うのだ(あるいは思いたいだけなのか)。 人は、まさにその瞬間で自分が感じ考えていることを肯定できているとき、過去に自分のした選択をすべて悔いのないものとすることができる。僕はいま自分の内面について、ささやかではあるけれど満足している。だから自分のこれまでの二十年間を振り返ってみて、大きな間違いは何も犯さなかったと思うことができている。少なくとも、そう思おうと望めばそう思うことができるくらいに、僕はいま自由である。(この文章を書いているまさに今だけそういう気分に浸っているだけなのかもしれないが。)
「Aと考えるなんてばかのやることである、僕はもちろんBだよ」と言っているCくんは、じっさいAと考えるタイプの人間かもしれなくて、それを恥じているからむりやり「僕はBだよ」と自分に言い聞かせているのかもしれにあ。そういった心の動きは誰にでも多少あるのかもしれにあですねえ。 嫌いなタイプの人がいるとして、その人は実は自分のなかにある自分の嫌いな要素を押し広げたみたいな存在なのかもしれない。(僕の中に「前髪の重たい優男」がいるのかもしれない。)あるいは自分が心の底ではそうなりたいと望んでいるけど、それを押し殺すためにでっちあげている負の感情なのかもしれない。(本当は「前髪の重たい優男になりたい」と思っているのに、僕はそれをむりやり押し殺しているのかもしれない。そんなばかな、笑。) 自分の中にある、そういう種類の心の動きにはとりわけ詳しくなる必要がある。
前髪の重たいボーカルのいるバンドを好んで聴くような、前髪の重たい優男になんか、ぜっ、たい、に、なりたくないものだ!(注:例外はたくさんあります。あなたのことを言っているわけではありませんし、あなたの好きな人のことについて言っているわけでもありません。うそじゃありません。)

むだなこと!(孤独)

例えば、あなたには仲良くなりたいと思っている人がいるとして、しかしその人もあなたに対して同じような気持ちを抱いているかどうか、分からないとする。(しかも、単に仲良くなりたいと思っているかだけではなく、「同じだけ」仲良くなりたいと思っているかまで問われることもある。)「相手も自分と同じような気持ちを抱いているとしたら!」と想像するとき、自分の思っていることをすべて打ち明けたい衝動にかられるし、そうでないとしたら、自分の思っていることをほんの少し打ち明けることでさえ(小さな意思表示なりサインなりでさえ)あまりにも恐ろしい行動であるように思えてくる。 互いに快く思い合っているとしたら、それを打ち明けないことほどもったいなくて、ぐずぐずしていることほどこの世界においてむだなことはない。しかし、そういうものなのである、ほとんどすべての人間関係におけるさまざまな思索は!(『灯台へ』という小説で描かれているような思索。)そういったもったいなさは、僕たちの周りに、つねに前提としてあるのである。そして孤独であるということは、そういったむだなことの積み重ねの結果なのである。これはもちろん誰が悪いわけでもない。 僕が人間関係に対して諦め、悲しむというとき、「誰と仲良くなっても楽しくなんかないだろう」ということを悲しんでいるわけではなくて、いま書いたようなこと(互いに快く思い合っているときでもそれを知ることができないということ)を主に悲しんでいるのである。僕がいつもあれこれ悩んでいることは、ときとしてこの世界でもっともむだなことであるかもしれないが、それは考えるに足らないことでは決してない。深刻なテーマになり得ることである。
「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」てきな姿勢が、僕は好きではなく! だから赤信号を渡るときは一人で渡りたいのだ、絶対に。しかし大きな問題があって、それは「僕に赤信号を一人で渡る度胸はない」ということである。

感じることの拡張

仮に僕がジャズを聴くことに憧れていたとする。(じっさいはそこまで憧れてはいないよ。)しかし当然いきなりジャズを聴いたとしても最初からその良さが分かることはないし、なんなら一生分からないんじゃないかという気さえしてくる。それでもジャズを聴くことに対する憧れを拭えないとしたら、僕はぐっとこらえてジャズを聴き続け、それによって感性を訓練させ、「感じることの拡張」をはからねばならない。 (心と形式をもちいて考えるならば、)こういうとき、まず形式から入らなければならないということになる。そしてあとから心が追いついてくる、つまり、じっさいに「ジャズを聴いて心地よい」と感じることができるようになるのを待たなければならないのだ。 しかしこのとき、一つだけ大切なルールがある。それは、形式から入ってまだ心が追いついていない間は、決してジャズを聴いていることを他人に言っては(見せびらかしては)ならない、ということである。あるいは言うとしても「ジャズを楽しめる人間になりたいから聴いているのだ」という言い方をしなければならない。(自分の気持ちに嘘をついてはいけないということである。)これを守らないとき、すぐさま「感じることの拡張」はストップする。それ以上の成長を望むことはできなくなる。「感じることの拡張」は、孤独の中でなされるものなのだ。 本、音楽、お酒、スポーツ、旅行…などなど(他にもたくさん)に触れることにより心を動かすこと(感じること)ができる人間であればあるほど、その人の人生は豊かになる(快楽主義?)。「感じることの拡張」は、人生を豊かにするために必要なことである。僕も精進しようと思います。(「考えること」もだいたい似たようなものだと僕は思っている。) 勉強と労働は人が生きていくために(お金を稼ぐために)必要ではあるが、人を感じなくさせ、考えなくさせ、生きていくことそのものの意味をも失わせてしまうから、注意が必要である。バランスを模索しなければならない。(勉強や労働から「感じること・考えること」を引き出すことができるならそれは素晴らしいことであるが、現状それができるほど恵まれた環境にいる人は少ない。「お金を稼ぐこと(ビジネス)」と「感じること・考えること」とは、基本的に相容れないのだ。利潤を追求すればするほど、人間は考えも感じもしないロボットになってしまうほうがいいの

想い

これは確かに といえる想いに出会えるだろうか 大きな想い 深い想い 永遠でなくてもいいから 心を動かされることがある 身体の中で大きく膨らむ それをすべて隠すことができたなら 自分だけのものにできたなら 向こう側にいるその人に この橋は頑丈だよと叫んで 僕がうそつきでないことを祈る おそるおそる近づいてくる 彼女は僕の言葉を信じるしかない 戸惑いがふたつ集まると火花が散るのだ 心を決めなくてはならない 確かな想いに出会わなくては
僕の書く文章はときどき自分を支えるために表現が「行き過ぎて」しまい、それを読む誰かを傷つけるかもしれないことがある。ごめんない。
僕はこう見えて「絶対に幸せになるぞ」と情熱を燃やしている。

好きなのか・そこまで好きでないのか

そこまで好きではない異性に対して期待を持たせるようなことはできない。しかし、そもそも自分はその人のことが「好きなのか・そこまで好きではないのか」の判断すら容易ではない。そこに葛藤が生まれる。 「好きなのか・そこまで好きでないのか」の判断を後回しにして、とりあえず「好きである」として仲良くし(つまり自分の気持ちに嘘をつき)、途中から「やっぱりそこまで好きではなかった、やめた」とするわけにはいかない。相手を傷つけることになるし、しかもそんなことをくり返してしまうとしたらそれはちょっとまともではないと思うからだ。きっと何かがすり減るだろう。 だから僕としては「好きである・そこまで好きではない」のはざまに立って、その「はざま」の状態をそのまま相手に伝えるようなことをしたいのである。過不足なく、正直に。でもそれはものすごく神経を使う。(それに僕は自分の気持ちに嘘をつくやり方が分からないのだ。演技をしたり調子を合わせるといったことが。それから、仮に自分と相手どっちも嘘をついていたとしたら、そこに生まれるコミュニケーションほど虚しいものはないとも思う。) そして何より、心の中の状態をそのまま相手に示しているわけだから、じっさいの自分が表に出ているわけである。だから相手からもし拒絶されたとしたら、それはじっさいに僕自身が拒絶されていることになる。よって簡単に傷つく。(一方、自分の気持ちに嘘をついてふるまうときは、それが拒絶されてもそこまで傷つかずに済む。その代わり、相手を勘違いさせ傷つけてしまうリスクが大きくなる。) 僕が理想としているのは「傷つかず・傷つけず」であるが(それは恋愛に限らずすべての人間関係に共通して)、それを頑なに守ろうとすると、結局人と関わらないほうがいいよね、ということになってしまいかねない。 どこらへんで折り合いをつけるのがよいだろう? ①どれくらい一人になって、どれくらい人と関わるべきか。②どれくらい自分が傷つかないために自分の気持ちに嘘をついてふるまい、相手が傷つかないために正直でいるか。(僕としてはできるだけ正直にやっていきたいものであるが。) (最後にひとつだけ書いておくと、自分が傷つかないために自分の気持ちに嘘をついてオーバーにふるまうことをしているくせに、それによって傷ついた相手に対して「勘違いするほうが

正直さ・自由に感じ考えること

僕がふだん考えている「正直さ」とは一体どんな「正直さ」のことを言うのだろう? 単に「事実と違うことを言わない」というんではないのだ。僕も事実と違うことを言うことがある。 僕の言う「正直さ」には際限がない。本当か嘘かの二択ではなく「程度」の問題なのである。白か黒かではなく、グラデーション。正直であろうと努力すればするほど、それだけ正直になることができる、といったものなのである。 自分の中にあるもの(自分が何を感じ、何を考えているのか)をできるだけ詳しく把握し、もっとも適した言葉に置き換えること。それを僕は努力しているのだ。言葉を用いる時点で百パーセント正直であることは不可能である。でもしっかりと、自分の中にある汚い部分にも目を背けずに考えれば(何パーセントかは分からないけど)かなりの正直さを保つことができる。 一番怖いのは、勝手に口が喋っていることである。考えもしないのに、その場に適した言葉を勝手に口にして、しかもそれがまさに自分の感じること、考えることであると錯覚してしまうことである。 (官僚の人たちを一概に悪く言うつもりはないけど、)僕がいま想像するのは「官僚的やりとり」である。心より先に形式があって、形式が心を踏み潰すのだ。人を感じなくさせ、考えなくさせる。イメージや体裁がすべてになる。他人からどう見られているかがすべてになる。 しかもその他人というのは、具体的に自分が大切に思っている人たちのことではない。もっと漠然とした不特定多数である。それは社会的なものであって、もはや人でさえないのだ。 黙っているとき、人はもっとも自由にものを感じ、考えることができる。それを誰に表明するわけでもないで感じること、考えることが、もっとも自分にとって「本当らしい」ものなのだ。自由とは心の中に築くもの、内側から湧き出るものである。
何か言おうと前もって心の準備をしていればいるほど、何も言えなくなる。言えたとしてもぎこちない感じになってしまう。いつになったら僕はぎこちなくなくなれるのだろうか。どんな顔、どんな声で言えばいいのか分からなくて、黙ってしまうことが多い。
神経がゆるんだ状態が好きである。誰からも見られていない、やらなきゃいけないこともない、次の予定もない。朝起きたとき二階の大きな窓から差し込む太陽の光をじっと眺めたり、台所にある椅子に座ってゆっくりビールを飲んだり、灯油ストーブの近くにあるソファに寝転んでひたすら深呼吸したりできる。 人と居合わせているときは違う。いつでも呼びかけに反応できるように準備していなければいけないのだ。神経を張り詰めていなければいけないのだ。やらなきゃいけないこと、次の予定があるときも同じで、時間というものに気を配っていなければいけないのだ。警戒していなければいけないのだ。僕はそういうことがかなり苦手なのだ。
政治や社会について怒りを持つ。しかし、それのために自分の生活を台無しにしたり、自分の脳みその中まで悲観的にさせる必要はないし、そうであってはいけない。もしそんなことになるとしたら、闘いながらすでに敗北していることと同じだ。何かを否定することは、それとは違うまったく新しい何か(自由を思わせる何か)を自らの中に築くためだけに許されることだ。最終的にはすべて、自分の中にある自由へと向かって(収束して)いかなければならない。反戦・反原発・反権力もすべて、内的自由を支える思想の一部でしかない、べきである。
一人きりの、あるいは二人きりの「秘密の生活」というものをよく想像する。一人きりか二人きりになって家にこもるか、人がいない田舎に行くか、異国の地を踏むかする。生活のすべてが第三者には隠されている。僕が(あるいは僕らが)一体どこで何をしているのか、どんな表情をしどんな仕草をするのか、誰も知らない。

強く心に決めていること

いま強く心に決めていること、それを(何年後でもいいんだけど例えば)十五年後もまったく同じように強く心に決めていられるかというと、それは難しい。ただ、十五年後の自分がいまの自分を振り返ったとき、笑い飛ばして突き放すような人間にだけはなりたくないと思う。いまの自分を心に含んだ状態で、いまの自分よりも大きな存在になっていたいと思う。 「あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりする」のを、力の及ぶ限りしないこと。それを守らないとき、僕は自分のほとんどすべてを失うと思う。僕は僕と関わりを持つすべての人たちに対して「この人のすること言うことは、間違いなくこの人の感じること考えることである」という確かな実感、安心感を与えたい。 誰かが誰のことも信じられなくなっているとき、僕だけは信じられるに値する人間でなくてはならない。人が僕に対して「どれくらい求めてもよいのだろうか」と戸惑っているとき、僕がじっさいに与えることのできる量を、過不足なく相手に伝える努力を怠らない人間でなくてはならない。 とにかくそれがいま心に決めていることである。強く心に決めていることである。自分の中にある「正直さ」のために苦しい寂しい貧しい思いをすることになったとしても僕はいっこうに構わないし、この「正直さ」のために緊張し狼狽し傷つきふさぎ込むことを繰り返さなくてはならないとしても僕はそれを受け入れる。確かな存在でいること、それを何よりも望んでいる。

人生の色合い

暗闇の中か、宇宙か、砂漠か分からないけれど、そういう「何もないところ」の中に一人きりで立たされている、というのが、もともとの人間の状態である。「何もないところ」とは、現に僕たちが生きているこの世界のことであったり、自分自身のことであったり、人間一般のことであったりする。 その場所で僕たちは、解決されることのないあまりにもたくさんの疑問に押し寄せられ、混乱し、怯えている。この混乱と怯えは誰のせいでもない、もともとあるものである。しかしそれが分からない人たちは「それらは隣にいる人のせいである」と思い込んで、意味なく憎悪し傷つけたりするのだ。 人生の多くの時間、僕たちは「何もないところ」で混乱し怯えているか、あるいは、たくさんの疑問が湧いてこないくらい他のことに時間とエネルギーを費やすことによって問題を先延ばしにするかしている。 それでもときどき(人生のうち数回)は、そういった疑問をすべて燃やし尽くすくらい強烈な喜び(太陽みたいなもの、快楽?)がもたらされる瞬間があって、そのときだけ「何もないところ」にいる自分をすっかり忘れることができる。 そして最後、ふとしたときなどに、それまでに味わった「『何もないところ』に立たされている混乱や怯え」と「すべてを燃やし尽くすくらい強烈な喜び」のふたつの体験を同時に思い出して、懐かしみ、この世界と自分自身に対しての「愛着」を感じることができるようになる。「すべてよし」と思うことができるのだ。それは強烈な喜びとは違って、静かな日常の中で感じることのできる幸福感である。

分かり合えない領域

感情を認めつつ、それとうまくやっていくことは難しい。僕はたまに自分の感情でいっぱいいっぱいになってしまうので、そういうとき、誰からも干渉されたくないと思う。人に会いたくないし、ラインも見ない。我慢するため、ものを考えるために一人きりになる。誰の助言も慰めも無意味に思われ、むしろ煩わしさしか感じないだろう。 そして僕は、逆に、そういう人(自分の感情でいっぱいいっぱいになっており、ほとんど誰の好意も受け入れることができない状態にある人)を前にして、途方に暮れたこともある。それはそれで悲しいものである。今では僕は、そういう人を前にして、かつ、その人が求めるものをこちらが差し出すことはできないだろうと思うとき、無関心を装うようになった。 人と人との関係には、いつもこういったところがある。誰も悪い人はいないのだが(みんなそろいもそろって優しいのだが)、誰も自分以外の人間のこころの中心部分にたどり着くことはできないのだ。あるいは一時的にはできたとしても、長くは続かない。人との関わりの中で得られる癒しには限界がある。それより先は、ただ自分ひとりだけの領域である。 こういうことを考えながら僕は、布団の中に一人きりでいるときなど、全世界の人たちに向けて、心の中でひそかに励ましを送りたくなってみたりする。でもそれだけである。実際のところ僕は、人間関係にあまり期待ができないまま、冷たい態度(とまではいかなくても、取り付く島もないような態度)をあらゆる人に対して取ってしまうのだ。 「みんな僕と仲良くしてください」なんて、口が裂けても言うことはできない。助けを必要としているときもあるけど、全然平気なふりをするしかないわけである。ただ自分ひとりだけの領域で、誰にも気付かれないまま耐えていることしかできることはないのだ。しかもそれは、僕(やあなた)だけにではなく、ほとんどすべての人に多かれ少なかれ背負わされている重荷なのである。ここまで分かっていてもなお、どうすることもできない、分かり合えない領域があるのだ。