恥の感覚・内と外

過去に自分のした醜態を思い出させるものに出会うとたまらなくなる。心の底では全く思ってもみないのに、ただそれが一番重い言葉だという理由で「死にたい…」という言葉が頭に浮かんできて、「それはうそだ、不適切だ」と思いながら急いで打ち消す。そしてすべて忘れるように努める。「いま現在は何も問題ないんだから、これからすることにだけ注意していれば大丈夫だ(あるいは何もしなければいい)」と言い聞かせながら。

「行動を起こす」というのは、それがどんな行動であれ怖いものである。どんなに懸命に考え、何度「これなら大丈夫なはず」と確認したとしても、やはり怖い。自分ひとりで考えている限り、間違いを犯していることに気づけないことがあるからだ。見落としがあるかもしれないし、そもそも前提から思いきり間違っていて間違った方向に考えを進めているということもある。不幸なことに、人は、自分がどんなに未熟な人間であるか、自分では気づくことができないのである。

「何とかして外へ」と思いながら行動範囲を広げてみるけど、そういった行動のすべてが他人から見れば滑稽なものとして映っているかもしれないと思うとき、たまらなく怖くて足がすくむのだ。「自分は正しく動けているだろうか? 恥をさらしていないだろうか?」という疑念が頭から離れないのだ。そして内側に引きこもることになる。「何もしなければ、何も心配する必要はない。安全だ」と考えながら、である。それは間違ってはいないが、一番大事なことを見落としている(あるいは見ないふりをしている)ことに気づかない。

「外へ向かっていきたいけれど、怖い」というジレンマとどのように決着をつければいいのか、僕は分からない。慣れない人と会うとき、僕は浮いているんじゃないかと思うことがある。歓迎されているように見えるがそれはうわべだけで、そのことに気づいていないのは自分だけなのではないかと心配になる。そしてそれがどこまで「実際にそう」で、どこから「自分の思い込み」なのか分からなくなるのである。近くで話をしているのに、僕だけが遠くにいるように感じられるのだ。