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倫理についての雑文

 良いことと悪いことが分かるからといって、自分なりの倫理的基準を持っているからといって、ちゃんとその通りに行動できるというわけではない。それでも私には、こういった基準なしではとてもじゃないけど生きていけないように思われる。私の心のなかではつねに、一方には良心、もう一方には欲望、怠惰がある。この二つははっきりと異なっているので、ごくごくまれにしか一致しない。こんなふうに、心のなかに二つの極があると考えてみる。そしてこれは私にとっては、なんというか……とても安心できる形である。  このような形なしでは、心がばらばらになってしまうのではないか。引き裂かれる感じではなくて、四方に飛び散るといった感じがするのではないか。良いことをするにせよ、悪いことをするにせよ、それを眺めて評価できるということそれ自体がまず喜ばしいことである。当然そのような評価には間違いが含まれているはずである。これはどうしたって避けることができない。そしてそれを自覚することこそ、何にもまして大切な感覚であることは言うまでもない。  何が良いことなのか、〈善〉とはいったい何なのか、こういった問題に答えることはできない。これまで多くの偉大な人たちがそれについて考え、いまだに答えが出ていないのだから、もし誰かがそれを知っているような顔をしていたらそれはその人の欠点である。善悪という概念を思い浮かべることはできるけれど、善悪をそれ自体として知ることは誰にもできない。私たちにできるのは、直観的に「あれは良いけど、これは悪い気がする」と思ったら、その理由を考えてみることである。正しい理由を与えることができるかもしれない、いや、それは正当化された自分の欲求、願望でしかないかもしれない。ここでは自分の心に公平であることが大切である。  明るくて、開けていて、美しくて、完全なものというイメージが〈善〉にはある。それは遠くの方にある。あるとしたら上の方にあるだろう。それがある方向がそもそも上なのかもしれない。そしてそれは私自身とどれほど異なっていることか。だけどそれがあるから向かうべき方向が分かるのだし、心がどっちつかずになっているときの最後の決め手にもなるのである。世界の見方、物事の認識を与えてくれ、そのために涙を流すということも起こり得るのである。

空気のうすい

ああかなしい さびしい気持ちもする ここは空気が うすくて どうしようもない 夜はとても静かで おそろしいくらい わたしの視界に うすい膜がはって あなたのことが よく思い出せなくなる 時がある 存在と名のつくもの すべてが眠ってしまった だけど心はざわざわ ゆれている すすきはきらきら 光っている ちいさく息をしている わたしを驚かせるもの 何もない たった一人きり もうこんなにも 遠くまで来てしまった
 メタ倫理学という学問の 入門書 を読んでいるのですが、ひょっとしたらこのメタ倫理学という学問は、「メタ」なんてついてはいるけれど、私たちが日常的にしている倫理的思考にもっとも近いことをやっているのでは、という気がしています。たとえば、Aさんが言った「〇〇することは良いことだ」という意見は、客観的なものではなくて、主観的なものなのではないか? とか、そもそも客観的な(誰もが認めると言えるような意味での)善悪なんて、はたしてあるのか? ないような気がするけれど、まったくないとまで言ってしまっていいのか? みたいな問題(とその他いろいろ)を扱っているようです。かなり面白い……!

懐かしい匂い

朝起きると さあっと心がゆらいでいる 感じがして 夢のなかの懐かしい匂いへ ふたたび戻っていこう そう考えた そこには幼少期の 家庭の安らぎがあって 泣いてはいるけれど 子供の悩みは 可愛らしい 美しい箱庭 光り輝いているけれど 私はもうその外側にいる それでもかまわない 体の動きがそのまま心 である子供 それを恥ずかしく思っている すこし早熟な子供 私たちはみなその延長 いまとなっては 微笑むことしかできない それでもかまわない

意味

あるときを境に ものが見えなくなった青年 視界に映るは様々な色 その混ざり合い 言葉は通じず 彼はこの世界のよそ者 となった…… ほらここに かわいい一組の男女がいて 一緒に涙を流している 向かい合い 喜びに息詰まらせている それを上から 眺めるは宇宙 ああすべてが このようでありますよう ああきっと そう成りますように
 私の頭の中にある、私がこしらえた倫理的判断(良いこと/悪いことの判断)は、私自身を評価することに のみ 適用されるべきであり、私以外の人間を評価するさいの道具にしてはならない。なぜなら、まず第一に、そのような判断は私の頭の中にあるというだけで、ほかの人の知ったことではないからである。そして第二に、もし倫理にかんする私の意見を相手に伝えたところで、それに同意しろ、と主張できる理由など何一つないからである。  また、私はさらに一歩進んで、「私に好かれたいのであれば、私が良いと思うような人間であれ。あるいは、少なくともその努力を示せ」というよくある言説にも陥らないようにしたい。もしも私が、自分の倫理にそぐわないという理由で誰かのことを嫌いになるとすれば、それはあくまで私の心の問題であって、その人のせいではない。なぜならそれは、客観的な良い悪いではなく私の好き嫌い、つまり恣意的な(=主観的で自分勝手な)判断だからである。要するにそれは、私の 利己心の表れ以外の何ものでもない 。
 それにたいして、長所があるから愛されるとか、愛される価値があるから愛されるという場合は、つねに疑念が残る。ひょっとしたら自分は、愛してもらいたい相手の気に入らなかったのではないか、といった疑念を拭い去れず、愛が消えてしまうのではないかという恐怖がたえずつきまとう。しかも、愛されるに値するから愛されるといった類の愛は、「ありのままの私が愛されているわけではないのだ」「私はただ相手の気に入ったというだけの理由で愛されているのだ」「要するに私は愛されているのではなく、利用されているのだ」といった苦い思いを生む。 (エーリッヒ・フロム『愛するということ』)

思い出

ああ思い出した むかし泥の中にいたこと 頭はぐちゃぐちゃ 思考はぐるぐる 真っ暗闇 一人叫んでいたこと ああ思い出した まるきり頭がおかしい 病院に行ったらいい 何なのこれは本当に怖くて いったいこれが人生 ああ思い出した みんな溺れている きっといまも溺れている よくもまあ けろりと忘れて ぬくぬく暮らしているもの ああ何にもできやしない ぼくはただ奪うだけ がんばれまだお前にも 仕事はある 心を明るくしていなさい

最近の読書/三島由紀夫について

 ここ一、ニヶ月ほど(?)あまり集中して本を読むことができなかったのですが、ようやく先日、三島由紀夫なら読めそうだ、ということに気がつきました。そんなこんなで『鏡子の家』を読み終えて、いまは『美しい星』を読んでいる最中なのです(過去には『永すぎた春』と『夏子の冒険』を読んだことがあるだけでした。チャーミングなヒロインが活躍する小説たちです)。  この人の思想についてはよく知りません。どうやら右らしい、しかもそれで自殺までしたらしい、ということは知っています。三島由紀夫の政治思想だけを切りとるとしたら、まったく何の親しみも感じない、というのが正直なところです。それで私はいままで三島由紀夫を少し敬遠していたのでした(私自身はどちらかといえば左寄りだと感じています。そう確信していた時期もあります。もっとも、こういったことが馬鹿げたことではないとすれば、ですが……)。  ただ、思想ではない、三島由紀夫とはどういう人間なのか、という部分をあれこれ調べたり考えたりしているうちに、思いのほか彼のことが好きになってしまった自分がいます。とても人間的で、心優しい人なんだなあ、という印象を受けました。それに正直な人だとも思いました。  心優しい怪獣、という表現が似合っていると(勝手ながら)思います。頭がすごく良いので、たくさんの批判を浴びつつも、そういった批判はすでに一人のときに考えたことがある、だけどそれらに十分な反論をすることが自分にはできない、ということもまた重々承知している。それでも何か人には言えないようなことのため、言ったら嘲笑を浴びるかもしれないけれど自分にとっては一等大切なもののために、どうしても自分の信念を曲げるわけにはいかないでいる。たった一人きりで自分の絶望から脱しようともがいている。それはとても苦しいことなのだけど、自分の苦しみを決して外には出すまいとしている。……そんな感じの人なのかなと思います。

礼儀正しさ/私の心の問題

 すべての人に対して謙虚で、礼儀正しくありたいと思う。「私は何よりもすべての人びとにたいして丁寧で、正直でありたいと思いました。いや、それ以上のものを、私から要求する人はいないでしょう」。誰も私からないがしろな扱いを受ける恐れのないよう、自分の心のあり方を模索していきたい。行為や態度ふるまいよりもまず、心のあり方を模索するのである。「こまかい心づかいや品格を教えてくれるのはその人の心で、決して踊りの先生じゃありませんよ」。ろくにものを言えなくたってかまわないから、態度ふるまいだけで選手に敬意を表明する、礼儀正しいボールボーイみたいになれたらどんなにいいだろう。  じっさい世の中には、いわゆる性格の悪い、容姿の醜い、あるいは貧乏で汚いという理由で、他人を軽蔑する人たちがいる。そして恥ずべきことに、この私自身、誰かと話すときや誰かを見たときに、その人に対する醜い感情が心に生じることがあるのを否定することはできない。なるほど、そうだとすれば、これは私の心の問題である。私を困らせるようなことをする人がいるかもしれない、私自身が「こいつはどうしても受け入れられない!」と感じてしまうような人がいるかもしれない、(自分にそれほどの値打ちがあるとは思わないが可能性としては)しつこく付きまとってくる危険な人というのがいるかもしれない。それでも依然としてあるのは、私の心が一人の人間に対してどのような反応をするか、という私の心の問題なのである。  世の中と他人にいちゃもんをつける、あるいは平和を訴えようかな、その平和を害するような人は地獄にでも堕ちればいい、と心の中でつぶやくことがあるとする。しかしもし本気で「世の中を良くしたい」だの「他人を良い方向へ導きたい」だのと思うのであれば、あるいは「世界平和を考えている」だのとぬかすのであれば、私はヒロイックな空想に心を奪われることなくさっさと現実的になって、世直しをするなどと偉そうなことを言うのではなく、私自身の心の方をこそ治療しなくてはならないのだ。醜い感情が生まれることのある私の心が治り、私の心がいくぶんましになるとき初めて、世の中もまた良い方へ向かっていくのだし、世界の善悪のバランスがいくぶん善に傾くのである。そのような道のりでしか世の中は良くなっていかないのである。
 自分はかわいいと思っているやつはまったくろくでもないと思うときがある。でもよく分からない。どこまでが偏見なのかよくよく考えてみる必要がある。かくいう私は全人類みなかわいい(ただし自分をのぞいて)と思えるようになりたい。そういう人間になりたい。白状すると私はときどき自分にもかわいい瞬間があると思うことがある。でもそれは恥ずかしいことだといまは考えている。人からかわいいと言われると嬉しくなる自分を恥ずかしく思う一方、素直に喜ぶのもべつに悪くはなかろうと思ったりもする。ありがとうございますと言うようにしている。

深呼吸

すうっと深呼吸 上手くいけばざぶんざぶん おしよせる大きな波 それに身をまかせればいい まどろんで深呼吸 ほどよい緊張と 心地よい安らぎ ただじっとしていればいい 夜の空気が体に充満する 座ったままで夢現 まだすこし落ち着かない 人の視線が気になるかなあ 手の置きどころが悪い 肌寒いので上着をはおる よしこれでいいだろう…… すうっと深呼吸 快楽にも似た 至福が頭のなかに広がる わたしは奥深く潜っていく 体の輪郭は不鮮明 思考はちぎれて混ざって消え 意識はこまかい粒になって霧 すべての活動は止み 静謐のおとずれ—— 今度上がってくるときには 穏やかな喜びを連れて

安定と冒険と二人

安定と冒険 二人はいずれも手を抜かない 彼らはチームだ 片方が不安なときには もう片方がなぐさめる 愉快なときにはあれこれ計画 いたずらっぽい二人組 それから冒険 お化け屋敷や 地の果てまでも ゆらゆらついにわれを忘れて—— さながら快楽主義者のよう 二人一緒なら遠くへも行ける 怖くなったらすぐ戻る…… 福は内にあり 外の鬼にも会いに行く 精神も肉体も二人のもの 彼らはチームだ 安定と冒険 二人はいずれも手を抜かない

良い子ぶること/偽善

 私はいまだに、自分がいったいどういう人間なのか、あまりよく分かっていない。高校生まではそんなことを問うてみようとすら思わなかった。その必要がなかったからである。大学に入ってからは家庭と学校の鎖からなかば自由になって、しかしその代わり、自分という存在がいかにおぼつかないものであるか、変化にさらされやすいものであるかを思い知った。「この自分」にかなった態度ふるまいを、血だらけになりながら模索するはめになったのである。  いまでは、なるほど、それらしい態度ふるまいを身につけることができたように思う。滑らかで自然な態度ふるまい、とは口が裂けても言えないけれど、人に対するさいの人格というものはできつつある。しかし困ったことに、それがあんまり良い子ぶっているのではないか、と私はいつも心配になるのだ。だからといって、良いことと悪いことの自分なりの基準を持っているのに、わざわざ悪い方を選ぶ気にはとうていなれないので、できるだけ良いと思う態度ふるまいをしているしかないのだが。要するに、偽悪的にふるまっても仕方がないので、偽善的にふるまっているということになるだろう(偽善をいみ嫌うあまり偽悪的にふるまうというカッコつけたがりも、いるにはいる。いずれにしても嘘をつくことには変わりない、悲しいことに)。 「私はあなたが思っているよりも複雑な、不純な人間である。もしかしたら打算的ですらあるかもしれない、そうならないように努力しているけれど……」。機会があればこのようなことを相手に伝えている。自分がどんな人間であるかは分からないけど、それでも確かに「本当の私」と呼べるものはあるのだと素朴に信じている。しかしそれは私には隠されているので、見ることも知ることもできない。ただそれがあるということだけを信じているのである。だからそれをできるだけ正確に伝えるために、いつでも自分の把握できるかぎり、力のおよぶかぎり正直でありたい。偽善的になってしまうさいには、せめてそれを恥じるか、白状するかしたいのである。
 一度でも心を開くということは、そのさき一生、その相手に対しては心を開いている(あるいは、少なくともその心づもりがある)ということである。私の倫理観に照らし合わせればそういうことになる。もちろん、現実的にはそんなこと不可能だし、それを徹底しようとすれば人間関係は窮屈になってしまうだろう。しかしだからと言って私は、その日そのときで誰をどのくらい受け入れるか受け入れないかは自分の勝手なのだ、となんの後ろめたさも感じずに開き直っている人たちの仲間入りをしたいとはつゆほども思わない。いつでも両手を広げているような人間でありたい。相手の必要としているときに必要としている分だけ付き合う、まあ言わば、相手にとって「都合のいい人間」になれるものなら私はなりたい。
 電気グルーヴのアルバム『A』にどハマりしてしまいました。一年くらい前に聴いたときには特別なにも感じず、ふざけているなあ、歌詞が少ないのはちょっとつまらないかなあ、などと思っていたのですが。先日たまたま入った服屋さんだか靴屋さんだかで「Shangri-La」のインストゥルメンタルが流れていて、これめちゃくちゃ聴いたことあるぞ、なんだっけ……と三十分ほど苦しみつつ考えたすえに、おお電気グルーヴだ!とふと思い出して、大急ぎで『A』を聴いてみたのです。そしたらなぜかハマってしまったのでした。アルバムごとにシャッフルして聴くか順番通りに聴くかしているのですが、このアルバムはどうやら上から順番に聴く方が楽しいようです。

夜の散歩

メアリージェーンという曲 聴きながら すずしい夜の散歩 ゆらゆら頭のなかでゆれている街灯 すっかり心地よい甘美なリズム おしよせる大きな波 わたしはつい呑まれてしまう ぐるりと輪になって浮かんだ メアリージェーン 体に染み入る濃青色の大気 地上をさまようみじめな魂 きらきら遠くの灯りに魅せられて ふいに恍惚と わたしは霧に溶けてしまう

はげしい欲望

自然あふれる箱庭 燦々たる太陽 心の安らぎ あり得べくもない場所は—— 彼はいま はげしい欲望に駆られていて とにかくお金が要る なんとかして! と頭の中で叫んでいる かすかな風景 記憶の奥で光っている—— ふっと正気に返り さあっと心が引いていく ざわざわ夜の森林のような だれもいない彼は部屋に一人きり 自分を罵っては頭をおかしくした それを見ている者もいない

ちらついて

ちらちらちらついている したこともない生活 美しい曲線 身体が燃え上がっている状態 ぱっと映像 渇いているという感覚 方法ならいくらでも いずれ私は若くない人生は二度とない 一方 ここは修道院 どちらも常軌を逸した夢のようで

愛憎が入り混じった感情

 この年齢になってはじめて、一度親しくなって(あるいはなりかけて)なぜかすれ違ってしまった人たちに対する、複雑な感情というものを学んでいます。愛していたり憎んでいたりがごっちゃになっている感情です。恋愛をした後にこうなるケースが多いとは思いますが、必ずしも恋愛でというわけではないようです。恋愛感情にせよ尊敬の念にせよ何にせよ、その人に対して抱いた感情が大きければそれだけ、不和があったときに感情がより複雑になってしまうようです。  こういう場合の一番深刻なことは、心の中に生じる自分の感情を、この私自身ですら信用できないということでした。ましてや他人がそれを信用することなど、できるわけもありません。いまこの瞬間には愛着を抱いているとして、それを相手に伝えたとしても、いったい誰がそれを信用するでしょうか。一瞬だけ愛しているだとか、あるとき好感を持っているというだけでは、その人との関係を進める(あるいは修復する)上で、ほとんど役に立たないのです。  この問題についてたくさん考えました。いついかなるときも愛する、いつでも親しくなるための心の準備がある、抱擁を交わすための両手をつねに上げている、そういう人間になりたいと何度思ったか知れません。いつでも愛するということができれば、相手がたとえそうではなくとも、いつかは必ず親しくなれるのですから。でもとにかく現時点で私はそれができない、要するに私は、愛にかけては大変な未熟者である、ということになります。  いまの私にできることは、せいぜいこういった分析を文章にすることくらいです。この文章を読んでもらう、そしてその内容に同意してもらうことで、一定の(最低限必要であるくらいの)和解が生まれるかもしれないと考えているわけです。あなたと私との間にというよりかは(もちろんそれも重要なのですが)、あなたとその周囲の人たちとの間にです。いやそれだけでは全然足りない、むしろ腹が立った、という人もじっさいいるかもしれませんが……。  この文章が、ごう慢さを帯びていないことを切に願っています。私はすれ違ってしまった人たちに対して、申し訳ない気持ちを抱いています。ときにはそれが深刻になり、もう何でもかんでも私が悪かったのだと思うことさえあります。しかし一方で、その反対のときがあることもやはり事実です。この文章は、そういった愛憎が入り混じった感情について、