良い子ぶること/偽善

 私はいまだに、自分がいったいどういう人間なのか、あまりよく分かっていない。高校生まではそんなことを問うてみようとすら思わなかった。その必要がなかったからである。大学に入ってからは家庭と学校の鎖からなかば自由になって、しかしその代わり、自分という存在がいかにおぼつかないものであるか、変化にさらされやすいものであるかを思い知った。「この自分」にかなった態度ふるまいを、血だらけになりながら模索するはめになったのである。

 いまでは、なるほど、それらしい態度ふるまいを身につけることができたように思う。滑らかで自然な態度ふるまい、とは口が裂けても言えないけれど、人に対するさいの人格というものはできつつある。しかし困ったことに、それがあんまり良い子ぶっているのではないか、と私はいつも心配になるのだ。だからといって、良いことと悪いことの自分なりの基準を持っているのに、わざわざ悪い方を選ぶ気にはとうていなれないので、できるだけ良いと思う態度ふるまいをしているしかないのだが。要するに、偽悪的にふるまっても仕方がないので、偽善的にふるまっているということになるだろう(偽善をいみ嫌うあまり偽悪的にふるまうというカッコつけたがりも、いるにはいる。いずれにしても嘘をつくことには変わりない、悲しいことに)。

「私はあなたが思っているよりも複雑な、不純な人間である。もしかしたら打算的ですらあるかもしれない、そうならないように努力しているけれど……」。機会があればこのようなことを相手に伝えている。自分がどんな人間であるかは分からないけど、それでも確かに「本当の私」と呼べるものはあるのだと素朴に信じている。しかしそれは私には隠されているので、見ることも知ることもできない。ただそれがあるということだけを信じているのである。だからそれをできるだけ正確に伝えるために、いつでも自分の把握できるかぎり、力のおよぶかぎり正直でありたい。偽善的になってしまうさいには、せめてそれを恥じるか、白状するかしたいのである。

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