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 (前回のつづき)ゴールデン街に到着。「深夜+1」と書かれた青い看板が光ってるのを見て、なんか面白いタイトルだな…と思い、そこの店に行くことにする。窓もなく扉も開いていなかったため、外から店の中は一切見えなかった。勇気を出して扉を開ける。開けると、黒縁メガネでロン毛でヒゲを生やしたお兄さん(かっこいい感じのおじさん)がカウンターの中に立っていて、奥の方には60歳くらいのおじいちゃんが座っている。崩れそうなくらい本が積んであり、映画のポスターがたくさん貼ってある。上からは飛行機の模型がぶら下がっている。ウィスキーを頼む。少しして、二人連れの男性客が来店。  話を聞くと、内藤陳さんという日本の有名なコメディアン(僕は世代ではないので知らなかった)がかつて経営をしていた37年近くやっているバーらしく、小説家をはじめとした文化人が多く訪れる(訪れた)お店らしい。店名の「深夜+1」は、イギリスのハードボイルド小説のタイトルから持ってきたそうだ(読んでみよ!)。内藤陳さんのサイン入り白黒写真が飾ってあった。奥に座っているおじいちゃんは30年近く通っているそうで、その日酔っ払って調子に乗っていたので、事あるごとにお兄さんに怒られていた(と言っても、険悪ではなく楽しいやりとり)。  お店のお兄さん(といっても、19年前に21歳だと言っていたので、かっこいい感じのおじさんである)が、僕と同じくらいだった頃の話を聞いた。その人は映画がものすごく好きだそうで、映画監督を志していたらしい。大学は真面目に通っておらず、単位を落としまくったあげく親に相談をせず大学を中退。家に帰り母親に報告をすると、お父さんが帰ってくる前に家を出なさいと言われ無一文で家を飛び出し、その日はバイト先のレストランの更衣室で寝たそうだ。その後友人の家に転がり込んだが、友人にもそろそろ出て行ってくれと言われてしまい、2週間どっかのリゾート地で住み込みで働きお金を稼ぎ、帰ってきてそのお金でアパートを借りる。よく行くお店にいるお客さんにそれらの経緯を話したところ、映画好きということも高じて当時の「深夜+1」に連れて行かれる。そのときお店に立っていたのが内藤陳さんであった。明日も来いと言われ翌日も行ったところ、カウンターに入れと言われ店の手伝いをさせられる。その後お店の鍵を渡され、戸締まりしろよ〜みたいなことを言われたま
 今日はいい日だったので、今日一日あったことを細かく丁寧に書いてみることにします。出来事(その日、どこに行ってどういう人に会ったかとか)について書くのは初めてだ。うまく書けるか分からない。淡々としていて、あまり面白くもない文章になりそう。  今日、朝11時くらいに起きて、1時間くらいぼーっとしながら「今日は一日中本読んだりだらだらしたり、やる気が出たら勉強したりして過ごすか……にしても部屋汚いな、片付けるか…」と思っていたら、なんか急に東京に行きたくなって、うっすら頭の中にあった予定では今日は東京に行く日ではなかったのに、なぜか東京に行くことに決めてしまった。  洗濯物が溜まっており、東京に行くのにマシなtシャツがみんな汚れたままだったが、東京に行く決心は一切揺るがず、すぐに洗濯をして、干して、着ていくtシャツだけ除湿機を思いっきりかけてドライヤーも使って、急いで乾かしてそれを着て14時くらいに家を出た。  かっこいいtシャツが欲しい! と思って、たしか高円寺はなんか古着屋が多かったな、と思い出して、まず高円寺に向かった。だいたい一時間半くらいかけて電車に乗る。電車の中では本を読んだ。『魔の山』が読みかけだったが、ちょっと飽きたので村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』という本を読む。読みやすかったし、導入からして面白そうな小説だと思った。ハードボイルドにちょっと興味あり。  高円寺に着いたら、適当に歩きながら古着屋を回った。古着屋よくわからんし、カッコいい服を見つけるのも大変そう…と思っていたので全然期待していなかったが、割といいtシャツを見つけることができたので買った。裾が長かったが無料で短くしてもらえるそうで、出来上がるまでの2時間くらい近くの喫茶店で時間を潰した。そこはクラシックが大きめな音量でかかっており、客の話し声は小さかったので読書がはかどった。ここでは『魔の山』を読んだ。さっきの古着屋に戻ってtシャツを受け取る。19時半。  夜はゴールデン街に行くつもり満々だったので、さてさて! と心の中で意気込みながら新宿に向かう。(こっからがメイン!)  ゴールデン街はなんか難しいイメージだ。これまで4回くらい行ったが、あまり楽しかった思い出はない。というより、また来たい! と思うような店が見つからない。お金と労力をかけてゴールデン街に行って、今日もたい
 誰か、絶対に信頼できる、一緒にいて安心できる人がいて、その人にならどんなことでも話せて、どんなことを話しても自分とその人との関係性が揺らぐことのない相手がいるというのは、本当に素晴らしいことだろう。今の僕にはいない。では、自分にかつてそういう人がいただろうか? と振り返ってみると、いなかったと思う。いや、「いなかった」というよりも、大学生になるまでは、そもそもそういう人の存在を必要としていなかった。「どんなことを話しても」以前に、何も特別話すことなんてない、打ち明けるべき事柄なんて、自分の中に何もなかった。  浪人時代に、これまで考えたことのなかった、しかしずっと考えてみたかった世界をのぞき見て、その影響からか、大学生になってあれこれ一人で思いつくまま考えるのを楽しいと感じるようになって、そのうちにそれが習慣となった。  考え始めた当初は主に、自分とはほとんど関係のないこと(科学とか、政治とか)についてあれこれ考えた。つまり、第三者としてものを考えていた。しかし、いつからかもっと主観的なテーマである「自分」について考えることが増えていった。「自分」といっても、一般的な「自分」ではなく、まさに「松岡大河」について。なにが好きなのかとか、どんな感情をもっているだとか、その感情をなぜ持つことになったかとか。  そして、自分の中にあったけれどこれまではそれに対して鈍感であった負の部分にも、積極的に正面から考えるようになった。これについて正直に考えたりするのは非常に危うくて、その危うい感じは、そのときの僕のツイートを見れば分かる。この負の部分というのは、きっと誰しもがある程度は持っているのではないか。しかしそれに自覚的でない人は多い。それを自覚することは非常に辛いので、いろいろごまかして知らないままやり過ごしてしまうのかもしれない。僕は、この負の部分というのがおそらく軽い方だったので、まあ、なんとかごまかさず考えられたのだ、とも言える。  そうこう考えているうちに、たくさん! 話す事柄ができた。これはかなり楽しいことである。たくさんの言葉を知ることができた。こうやってすらすら文章が書けているのもそのおかげだ。頭の中は常日頃から、いろんな言葉にあふれていて思考はやまない。  しかし、ときどきそういった脳みそにうんざりすることがないでもない。言葉でいっぱいになった脳み
 立派なことを書こうとしなくてもいいから、毎日なにかしらの文章を書くことにした。考えたことでもなんでもないようなことまで、流れるように。タイピングの練習もかねて。  だから、「こんな文章読んでも楽しくないだろ…」と思ってしまうような、中身のない文章がたくさん増える気がします。でも、日記だと思えばそんなの気にしなくてもいいね! 読みたい人だけ読めばいいよ! (それは始めらかそうだったが。)  昔々に書いた自分の文章があれば、当時の自分がなにを考えていたかとか、なにがあったかとか、いろいろ思い出すことができてなんか良さそう。しかもそれがたくさんあればあるほど飽きないだろう。そういった将来の楽しみを増やすという意味でも、くだらないことでもいいから(たぶん)毎日、日記を書くことにします。  あるいは、こういうだらだら書いた文章でも案外読む人がいるのかもしれない。僕も、自分の知っている人が毎日なんかしらの文章を書いているとなれば、ちょっと面白そう! と思って読みに行ってしまうだろう。毎日ブログなりホームページで日記を書くなんて人は、ツイッターがある現在ではあまり主流ではないけれど、そういう人が増えればきっと毎日の楽しみも増えるような気がする。(ツイッターを見るのも楽しいけど。)  この日記が、誰かの毎日の楽しみのひとつになれればとてもいいですね……。
どんなことがあっても、平然としていることにした!

なにを話すか? (全体主義とからめて)

 なにを話せば楽しいんだろうか? ということをよく考える。難しい話が楽しいこともあれば、他愛もない話でも楽しいことはある。こういうテーマならおれは楽しい、とか、そういうふうに分けることはできない。いわゆる「くだらない」話でも、楽しいことはある。ただ、最近はこう考えている。少ない人数(2〜3人、多くて4人)でこそできる会話が、楽しい会話なのではないか。大人数でする会話に、楽しい会話はない! と思う。これは僕個人の意見だけれど、そういう人は他にもいるのではないか?  大人数でする会話、もっと言えば、「たくさんの人が聞くことを前提として発せられた言葉」は、総じてつまらなくなる傾向にあるように思う。それらの言葉は、当たり障りのない言葉、つまり、自分の思うこと考えていることとは遠い言葉になりがちである。  例えば、コンビニ店員の言葉、政治家の言葉、など。これらの言葉は、かなりたくさんの人(大衆)が聞くことを前提としていて、きわめてつまらない言葉しか発せられない。彼らの発する言葉に、そのひと個人の思うことや考えることは反映されない。形式的、定型文、マニュアル通りといった感じなのである。  大衆向けではない、普段の会話をしているときであっても、コンビニ店員や政治家の言葉のような形式的な言葉しか言えないような人たちを、僕は割と軽蔑している(大きな組織の上にいるような人間に多いよ、官僚とかね)。発言は基本的に、思うこと考えることを外に出すために用いるべきで、そうではなく「発言」だけが先にあるような形式的な言葉しか言えなくなったような人たちは、なんにも考えていない人たちだ。なんにも考えていない人たちとの会話はつまらない。なぜなら、「別にそいつじゃなくてもいい」からだ。別にそいつじゃなくてもいいやつで満ちた世界は、権力者の金儲けにはいいが、人間らしい部分はもはやない。ここらへんは、全体主義の話と関係している。たくさんのスローガンが飛び交い、一人ひとりの言葉が失われたディストピアを想像する。アイヒマンは処刑される間際になっても、葬式で使われるような定型文しか言うことができず、「目の前にある死」という現実的なものをも把握できないほどに愚かで、なんにも考えていない空洞のような人間であったと聞く。  大衆向けの発言しかできない人はかなり少ないが、大衆とまではいかなくても、大人

ひねくれている

 僕は本当に性格がひねくれていて、しかもどうにも直しようがないのは、他人の言動を頭の中で評価せずにはいられないという点である。いろんな人の、いろんな発言や行動を見て、大抵の人ならそんないちいち思わないことまで、思ってしまう。大抵の人ならそんないちいち思わないことも分かっているので、それを吐き出さずに頭の中だけで留めておく。「思ってしまう」のは抑えようにも抑えられないから、頭が忙しい。だから、それをそっちのけにしてその場に繰り広げられている「楽しみ」みたいなものを、他のみんなと一緒になって享受できないのだ。僕だって、そんな「正しい」認識かも分からないようなもの、抑えられるもんなら抑えたい。「そんなお前の小さい脳みそで、あれこれ判断すんなよ」と、自分に対して思う。僕だったら、僕みたいな人間と接するのは怖いし、また、そんなにいろいろ思うことに価値もないだろ、と思う。「楽しみ」を削ぐだけだ。  事実、僕は自分の目を一番怖がっているように思う。僕がそこまで深く考えずにした発言や行動は、他人から見たらどのように映るだろうか? というのを、後から不必要なまでに考えてしまい、自分を苦しめることがあるのだが、本当はこれは「他人から見たら」ではなく、「ひねくれた自分が、自分を俯瞰して見たら」である。つまり、僕がひねくれた精神でいつも他人の言動にあれこれ思ってしまうため、自分のまわりにいる人たちも、自分と同じくらい(とまでいかなくても、本来そうである以上に)ひねくれた精神であれこれ自分を評価してくると錯覚してしまうのだ(多分、「自意識過剰」と言う)。自分の目が、自分を苦しめているのである。(そして、数は少ないかもしれないけど、きっとおれと同じくらいひねくれている人も中にはいて、おれよりもひねくれている人もいないではないんだろう。彼らも、自分で自分を苦しめているのだろうか。あるいはそれを解決して、もっと強いレベルにいるのだろうか。)  こんな文章を書いたら、人が離れていきそうだ。本人がそれを意図しない場合であれ、そんなあれこれ評価してくるやつと接したくなんかねえわ、というのは当然の反応である。最初の方に書いたように、僕だって僕みたいな人間と接するのは怖いと思うに違いない。しかしこれだけは分かって欲しいのだが、僕は、「思ってしまう」内容よりも、「思ってしまう」自分に対して一番ウンザリして

世界

森とか海とかを想像していたいです 東京やジャイプルを浮かべたいです ナチスも北朝鮮も、けん銃も原発も アインシュタインとかアキレスとか 数式、明朝体からヘブライ文字まで 誰かの悪口や自分の悲しみについて ポリスがどうだドーピングがなんだ 宇宙の始まりとは人類の終わりはね 粉々になった感情や曲がらないもの 快楽に溺れた道徳を学んだみたいな これはエネルギーだエントロピーだ どこまでも深く潜るのためらうとか 信じたりおかしくなったりゾウとか 虎とかユンコーンとか春や広島やら 笑い声の種類とジェンダーや孔子も 労働と綺麗な人やら私たちの未来も モルヒネ六角レンチも真理もなにもかもを! ゆっくり、ときに激しくおもしろく 飽くまで朝まで話をしていたいです

「なぜ」と「どうすれば」(内から外へ)

 「考える」には、「なぜ」と「どうすれば」があって、僕はいままで「どうすれば」を少し軽蔑していたのかもしれない。「なぜ」だけをずっと考えていて、それでかなり楽しかったし、上手くいった部分も多かったけど、それでは解決できない部分がおそらくたくさんあって、それに気づけたここ最近は、「どうすれば」を鍛えている。「どうすれば」だけを鍛えてはいけない。これは絶対にそう思う。  「なぜ」は、「本当のところ」を知るために必要な問いだ。僕はこれまで、本当の自分(自分が本当に思っていることや、やりたいこと、発言、ふるまい)みたいなものを、ものすごくたくさんの時間をかけて考えていた。その中で、ものすごくたくさんの「本当ではないもの」を身にまとってずっと生活していたことを知り、それらをそぎ落としていくたびに、「本当のところ」に近づいているような実感もあった。これは、非常に面白い体験だった。しかし、そういう「そぎ落とし」みたいな作業があらかた終わってしまった後で、じゃあ肝心の「本当のところ」ってのは一体なんなんだ? という部分がいくら考えても全く分からず、だんだんと「なぜ」を考えるのが非常に苦しい作業になっていった。具体的にどういう感じかというと、自分の発言やふるまいのすべてが、どれも嘘くさいというか、なにか隠したい動機のためにでっちあげたものに感じられて、それを他者に見透かされるのが怖い、みたいな。  今は、(助言もあって!)、「本当のところ」なんてのはなくて、体を動かしながら作っていくものだ、というふうに考えている。というより、そういうふうに考えた方が「うまくいく」のではないか。(本当は「本当のところ」があるのかもしれないが、しかし、本当は「本当のところ」があるのか? という疑問の「本当」もないのではないか。……ええい、知らん、ひとまずは「どうすれば」「うまくいく」かをよくよくかんがえてみようじゃあないか!)といった感じで、いったんゼロになった自分を、イチから「どうすれば」を考えることによって、作り上げているのが今の段階であります。そうして作り上げてった先に、「本当のところ」があるのかもしれない。(そう信じよう。われ疑わず!)内向きに「本当のところ」を探すのではなく、外向きに「本当のところ」を探すイメージへ。実際に僕は、家の外に出て歩き回り、人と会って話をしたりすることによってそれ

思考は入り交じる

 「考える」ことと「文章を作る」ことは、ほとんど同じようなもんである、と僕は考えている。ものを考えるとき、僕たちは頭の中で言葉を使っている。頭の中で考えるときには、自分にだけ理解できれば十分であるから、他人にも理解できる完全な文章を作る必要はない。対して、人に伝わるように話をしたり、文章を書いたりするときは、他人も理解できるように配慮しながら、文章を作る。前者と後者の違いは、自分にだけ理解できる文章を作るか、他人も理解できる文章を作るかの違いだけであって、両者の間に本質的な違いはない。したがって、「考える」ことは「文章を作る」ことであるし、「文章を作る」ことは「考える」ことである。  「考える」は、基本的には一人で行うものである。(他人の頭の中を直接のぞくことなんてできないもんね。)しかし、僕の思考があって、あなたの思考があって、Aさんの思考があって…、という感じに、一人ひとりの思考が独立してある、というわけではない。僕たちの思考は常に、自分の見ているもの、聞いていること、会っている人に影響を受けている。「考える」とき、つまり「文章を作る」とき、僕たちは「言葉」を使っているため、特に、「言葉」を聞いたり読んだりすることは、自分のこれからの思考を大きく変化させると言えるだろう。僕が喋った「言葉」は、それを聞いた誰かのこれからの思考に(良くも悪くも)影響を与える。同時に、僕のこれからの思考は、誰かが喋った「言葉」によって、それを聞かなかったとしたらなっていたであろう思考とは異なったものになる。  ここでいう「言葉」とは、「単語」という意味を持つだけではない。「表現」だったり、「構文」だったり、あるいはそのまま「文章」だったりする。「ある単語とある単語のセット」であったりもする。もしかしたら、一つの「思考」そのものであるかもしれない。  そういった「言葉」を、僕たちはいつもあげたり、もらったりしているのだ。そして、そういった「言葉」の交換によって、僕たちの思考は入り交じる。僕が誰かと会話をすれば、僕とその人の思考は、交換された「言葉」を介して少し重なり、それが僕の新しい思考となる。そして今度はまた別の人と話をして、さらに思考は入り交じり、再び新しい思考に変化する。これを絶えず繰り返すことによって、一人ひとりの思考は絶えず変化し、もともと自分が持っていた思考は、

広い意味での「政治」

 政治についてあれこれ考えるのは楽しい。複数の人びとが集まったときに、どういう権力が働いて、それがどういう影響を及ぼすか、どうやって複数人をまとめ上げるのか、といったことを考えるのが楽しい。  「Aがもしいなかった場合にはしなかったであろうことを、Bがする」とき、「AはBに対して権力を持っている」と言う(ことにする)。これは、なにもAが暴力や暴言を使ってBに強制的になにかをさせた場合に限らない。例えば、BがAの顔色をうかがって、なにか発言や行動を制限された場合でも、AはBに権力を持っていると言えるし、なんなら、BがAを喜ばせようと思ってプレゼントを買ってきただけでも、AはBに権力を持っていると言える。このことからも分かるように、人が2人以上集まれば、必ず権力は発生する。そしてその大小はあれど、ほとんどの場合、双方向に(AはBに対して、BはAに対して)権力は発生する。  そして政治とは、権力構造や権力配分の問題を扱う学問であると、僕は理解している。であるから、家族でも国家でも、政治というものはある。学校でも会社でも、あるいは友人が集まったり、恋人同士でも。人が複数人集まるところ、つまり権力があるところすべてに、政治はある。人間関係について考えることは、政治を考えていることと同じ! と、僕は思っている。(ハンナ・アーレント的には、「哲学」は一人きりでやるものらしく、では複数人でやるものはなにか? と問うたとき、それは「政治」である、らしい。)  僕は、あらゆる人が集まる場所での、パワーバランス(権力配分)を考えるのが好きである。できる限り自由な関係を作り上げようと、一人ひとりが、自らの権力の強弱を考えられる賢い人間であることによって成り立っている政治がある。誰か1人(あるいは一部の人間)が絶対的な権力を持っていて、その人がその他全員を強制的に従えているような政治がある。画一化された人びとが権力を持ち、そこから外れた少数の人たちをボコボコにすることによって成り立っている政治がある。そういうのを考えるのは、面白い。

「エナジイを燃やすだけなのです」!

 ふとしたときに、あらゆるいいことも悪いこともひっくるめたすべてに対して、「いいなあ!」と思うような雑な感情が湧き上がって、「人間!」とか「世界!」みたいな、ざっくりとした言葉しか頭に浮かばなくなって、そしてそれを「エナジイ」と呼ぶことにする。  体と脳みそのすべてを動かす原動力になっている、エナジイみたいなものがしっかりと自分の中にあって、それがあるからあれこれ考えたり動いたりするわけです。だってそうじゃなかったら、そこになんにもなかったら、どうしてあれやこれや喋ったりする必要があるだろうか? 惰性で生きて惰性で死ねばいいじゃないか、なんのこだわりもない、全員同じことをして同じ方を向いていればいいじゃないか、ということになる。  その「エナジイ」を取り出して直接目で確認できれば一番いいし、それを取り出して人に見せることができれば一番ラクなんだろうけれど、それがどういうわけか無理だから、こうして考えたり喋ったり動いたりして、間接的にでもその存在を確認する。営みがあるんだから、自分の中に(人間の中に)何かはあるはずだ! と思う。  意識して、このエナジイとやらを大切にしたい。どんなに上手に喋っても、どんなに論理的に正しくても、そこを誤魔化しているんならやめてしまえ、と思う。どうか、エナジイに従ってください! エナジイをできるだけ正面から把握してください。(まじで、「エナジイ」ってなんやねん…、と自分でも思いはじめる。)  間違っても、24時間テレビなんかを見て、エナジイを感じちゃったりするようではいけない、と思う。逆に、一切のエナジイをなくして、それっぽいことを言う脳みそだけをこしらえてもいけない、と思う。  「たしかにこれは!」と言えるものを常に探して、外を、あるいは自分の中を、歩きまわるのだ。だから僕はだいたいぎりぎりで喋っています…。でも最近はもうちょっと上手に喋れるようにもなってきた。本当のところをうまく隠すようにスマートにふるまい(でもそれはそうするしかないからなのだ)、ふとした瞬間に「わ!」と言って驚かせてみたりしたいもの。

言葉がなければ、思考はできない。

 「考える」とは、「AとBの、どちらが正しいか考える」だと仮定します。実際は「どれが」だろうけど、話を簡単にするために「どちらが」にします。(物理や数学において、1次元で考えたあと3次元に拡張するのと似ている。2で考えたあとに、nを考えるのと似ている。)  考えるためには、言葉がなければいけない。これは「言葉がなければ考える行為そのものができないよね、動物は考えられないのと同じように。」という意味ではない。(もちろんそれは正しいんだけど。)ここで言いたいのは、どんなに考えることが得意な人でも、AとBの両方の情報(Aに関する言葉、Bに関する言葉)が与えられなければ、「AとBの、どちらが正しいか考える」なんてことは一切できない、という意味である。どちらか一方に関する言葉だけではいけない。  子どもの頃からAに関する言葉だけを聞かされ続け、Bの情報を与えられなければ、知らず知らずのうちにAだけが自分のすべてになり、「AとBの、どちらが正しいか考える」ことはできなくなる。それどころか、考えようとすら思うことができない。人間は、他の何かと比べることではじめて、その何かを疑うことができる。Bを与えられなければ、Aを疑うことすらできない。自分がAを正しいと信じていることにすら、気づくことはできないのである。  極端な例をあげる。物心ついた頃からずっと、親から「2足す2は、5!」だと聞かされ続ければ、学校に入って「2足す2は、4!」であると教わるまで、「2足す2は、5!」であると信じて疑うことはできないだろう。それどころか、自分が「2足す2は、5!」を信じているとすら頭には浮かばない。あまりにも当たり前のこととして受け入れてしまっていて、思考の余地がそこにはないのである。学校に入ってはじめて、その子は衝撃を受ける! お父さん、お母さんは間違っていた! と。コペルニクス的転回である。(このとき、脳みそが喜ぶ。脳みそは言う、「おいしい!」)  自分の思考は、これまで見たもの、聞いたこと、会った人にどうしようもなく依存しているのだ。触れる世界の大きさが、思考の大きさを決定する。見聞きする言葉の多さが、思考の多さを決定する。小さい場所で、少ない人と会い、ちょっとの本しか読まなければ、思考できることなんてたかがしれている。  高校生までの少年、少女にとっては主に、家庭と学校の大きさ