なにを話すか? (全体主義とからめて)

 なにを話せば楽しいんだろうか? ということをよく考える。難しい話が楽しいこともあれば、他愛もない話でも楽しいことはある。こういうテーマならおれは楽しい、とか、そういうふうに分けることはできない。いわゆる「くだらない」話でも、楽しいことはある。ただ、最近はこう考えている。少ない人数(2〜3人、多くて4人)でこそできる会話が、楽しい会話なのではないか。大人数でする会話に、楽しい会話はない! と思う。これは僕個人の意見だけれど、そういう人は他にもいるのではないか?
 大人数でする会話、もっと言えば、「たくさんの人が聞くことを前提として発せられた言葉」は、総じてつまらなくなる傾向にあるように思う。それらの言葉は、当たり障りのない言葉、つまり、自分の思うこと考えていることとは遠い言葉になりがちである。
 例えば、コンビニ店員の言葉、政治家の言葉、など。これらの言葉は、かなりたくさんの人(大衆)が聞くことを前提としていて、きわめてつまらない言葉しか発せられない。彼らの発する言葉に、そのひと個人の思うことや考えることは反映されない。形式的、定型文、マニュアル通りといった感じなのである。
 大衆向けではない、普段の会話をしているときであっても、コンビニ店員や政治家の言葉のような形式的な言葉しか言えないような人たちを、僕は割と軽蔑している(大きな組織の上にいるような人間に多いよ、官僚とかね)。発言は基本的に、思うこと考えることを外に出すために用いるべきで、そうではなく「発言」だけが先にあるような形式的な言葉しか言えなくなったような人たちは、なんにも考えていない人たちだ。なんにも考えていない人たちとの会話はつまらない。なぜなら、「別にそいつじゃなくてもいい」からだ。別にそいつじゃなくてもいいやつで満ちた世界は、権力者の金儲けにはいいが、人間らしい部分はもはやない。ここらへんは、全体主義の話と関係している。たくさんのスローガンが飛び交い、一人ひとりの言葉が失われたディストピアを想像する。アイヒマンは処刑される間際になっても、葬式で使われるような定型文しか言うことができず、「目の前にある死」という現実的なものをも把握できないほどに愚かで、なんにも考えていない空洞のような人間であったと聞く。
 大衆向けの発言しかできない人はかなり少ないが、大衆とまではいかなくても、大人数向けの会話しかできないような人は結構いる。かくいう僕も、かつてはそうであったような気がする。そういう人は、大人数で会話をする分にはいいんだが、少ない人数(2〜3人)で会話するとき、ものすごくつまらない人間になる。
 これは、「親密さ(仲良し)」がどのように生まれるかと、深く関係している。人と人との親密さは、その2人が共有した「秘密」の数で決まるのだ。
 「秘密」と言っても、なにか隠しているもの(まさに秘密)を相手に明かすことだけが、「秘密」を共有することになるわけではない。2人(あるいは3人)で会話をして、その2人以外の人間がその会話を聞いていなかったとき、そこには自然と2人だけの「秘密」が共有される。そこで繰り広げられた会話の内容は、その2人しか知らないのだ。今後、他の人がいるときにその話を持ち出しても、通じるのはその2人だけなのである。そのとき、その2人は仲良し! という感じがする。
 ここで大事なのは、そういった「秘密」が生まれるような少人数の会話においても、大人数が聞いて耳に心地いいような言葉しか話せない場合、「秘密」は極めて弱いものになる、ということだ。そういう人は、いつも誰かと一緒にいたとしても、誰とも仲良しになんかなれない。なんにも考えていない人は、誰とも仲良しにはなれない。『一九八四年』における、思考そのものが犯罪であるような誰もなんにも考えていない世界では、びっくりするほど誰も誰とも仲良しではない。家族同士であっても、だ。みんなで集まって、同じスローガンを叫んでいても、一人ひとりが圧倒的に孤独なのである。
 会話をするとき、考えたことを話すぞ! と思わなくても別によくて、思うことをそのまま話せばいいと思うが、普段からものをある程度考えていなければ、なにも思うことはできないだろう。
 そして、ものを考えるというのは、一人きりですることである。だから、一人きりになってものを考えるような時間がない限り、いくら誰かと一緒にいても、つまらん会話しかできず、誰とも仲良しになれず、とても寂しいんではないかなあ…。忙しい人も同じで、考えるための時間がないため、寂しい人になりがちであると思う。
 おれは、みんなと仲良くなりたいが、みんなで仲良くなりたいわけではないのだ。

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