投稿

3月, 2020の投稿を表示しています

母親

家族のなかで母親がヒステリックになっているのであれば、それに気づいた人は、母親を力のおよぶ限りに愛さなくてはならない。理屈もこちらからの要求もすべて、たくさんの情愛とともに伝えなければならない。こちらからの要求を通すために情愛をもちいるのではなく、 ちゃんとした 情愛をなによりも先に示さなくてはならない(抱いていなければどうしようもない)。寂しさはいろんな負の感情(怒りや憎しみ)となって表に出るものだ。僕もそういうことの経験があるし、それは誰しも同じである。間違っても「母親自身に問題がある」だなんて考えてはいけない。あるいは「父親は優しいけれど、母親とは仲良くできそうもない」だなんて思ってはいけない。僕たちは(あるいは社会は)これまで、母親からあまりにもたくさんのことを求めていて、彼女たちは「もう与えるものがない(まるで足りない)」というところまで、与え尽くしてしまうのである。どちらが正しいことを言っているとか、そういう問題ではないのだ。理屈ではないのだ。僕たちはそういう世の中の仕組みを何よりもまず知らなくてはならない。「誰ひとり寂しくないこと」を目指さなくてはならない。
寂しいのかもしれない……。まだよく分からない。たとえ寂しいとしても、こんなに寂しくなさそうにふるまっておいて、今さら「寂しいです、助けてください」とは言えない。一時的なものと思いたい。一時的に寂しくなるくらい、耐えてもらわなかったら困る。 バディーがズーイに宛てて書いた手紙を、もう十回くらいは読んでいる(というより眺めている)。心を広げてくれるようなものが必要だ。世の中はそういうもので満ちているべきだ。深呼吸して肺を大きくするみたいな気持ちにさせてくれるもの。
いまある(と僕が思い込んでいる)人間関係がどこまで続くのか、それは誰にも分からない。どんな人間関係も、その箱の中に何が入っているのか(そもそも何か入っているのだろうか?)は分からないものだ。何も知らされず、いきなり人が離れていくかのように見えたり、何も知らされず、また近づいてくるように見えたりする。「何も知らされない」、これはひとつの特徴であると思う。みんながみんな、それぞれ何も知らされないまま、近づいたり遠ざかったりする。僕たちは暗闇の中を歩き回っているようなものなのだ。心は誰にも(自分自身でも)よく分からないような複雑な動きをする。「どうして?」と思うときもある。でも説明を求めてはいけないし、自分のせいと思いすぎてもいけない。「何も知らされない」こと自体に不安になってはいけない。心持ちを大きくしなければいけない。
子どもはいちばん悪くない。子どもをいじめる大人が悪い。でも大人もそこまで悪いわけではない。大人をいじめる社会のほうがずっと悪い。母親がヒステリックになりやすいことは、母親に原因があるわけではなく、社会が押しつける母親像(ないしは女性像)に問題があるからに他ならない。女性は社会が押しつける男性像(勝ち組になれ)に潰れそうになっている男性を支えなければならないのだ。僕はときどき社会がすごく憎たらしく感じることがある。社会にとことんいじめられているのに、僕たちはそのことに気づかず、周囲の人たち(大切な人たち)のせいにしてしまうのである。まったく解せない。こうやって腹が立っているそばから、この怒りが、社会(それは相手にしようがないほど大きい)に対してではなく、周囲の人間に向かってしまわないかと怯えていなければならないのだ。 世の中がどういう仕組みになっているのかを僕たちは知らなければならない。丁寧に原因をたどらなければならない。どういう道のりで物事が良くなっていくのか、平和に向かっていくのか、それをまずちゃんと知らなければならない。理想の状態をいちど頭にたたき込まなければならない。

原因と結果・良いと悪い

僕がいま感じていることや考えていることは、僕が感じたくて感じている、考えたくて考えているのでは決してなく、ただあらゆる原因が複雑にからみ合い、僕の意思とは関係なく感じさせられている、考えさせられているにすぎない。だから僕の感じることや考えることが「悪い」からといって、それは僕の責任ではないか、あるいは「もともとある罪」でしかない。僕はこの「もともとある罪」のために謝罪しなければならないのだ。 とある人間の人格が「悪い」からといって、その人自身を責めることは到底できない。なぜならその人の人格形成にその人自身はいっさい関与していないからである。だからその人と仲良くしないという選択は、ただひたすら自分自身の欲求(仲良くしたくない)のみに委ねられているのだ。すべての人と分け隔てなく仲良くできないことについて、僕は心のなかでつねに謝罪し、許しをこい続けなければならないのである。 どんな結果にも原因があって、その原因の前にもやはり原因があるのだ。そうやって原因をたどっていくと、まだ誰も生まれていない時代にすべての原因を見ることができる。僕たちがすべき唯一のことは、何かが「良く」なるための原因をつくりだすことであって、「悪い」ものを批判することではないのである。誰も誰かの裁判官になることはできない(資格などない)し、自分自身の裁判官になることすらできないのである。
「一人の足の不自由な人間から、もう一人の足の不自由な人間への言葉として聞いてもらいたいのだが、(…)お互い思いやりをもって温かく振る舞おうじゃないか。」
ときどき人の名前を心のなかで叫んだりしている。彼/彼女たちがどんなに僕の心の支えになっていることか!(アリョーシャ……!)しかしそういった気持ちを言葉にすることは難しい(そもそも会うことができないような人もなかにはいる)ので、その人たちは、僕が心のなかでひそかに名前を唱えていることを知らないのである。それはもったいないことかもしれない。なぜならそういった感情は、その人たちがもっとも苦しいとき、いちばん彼/彼女らの心の支えになり得るものであるからだ。では一体どうやってそれを伝えればいいだろう? 感謝しています? 尊敬しています? 愛しています? 人はその言葉を信じてくれるのだろうか(例えばそれは「僕自身を押し付けている」みたいに聞こえるかもしれない)。ある種の感動は、それを心のなかに留めておくとき、もっとも自由で、純粋で、誰かに伝えるに値するだけの真実みを帯びるのである(皮肉なことだけれど)。だからたいてい黙っているし、ぎこちないし、難しい顔をしていることさえあるけれど、どうか、どうか僕のことをあてにしてください。僕がそのように強く思っているのだということを頼りにしてください。そうやって強く信じあうことでようやく、人は寂しさに耐えることができるのである……
自分の賢さが役に立とうが立たなかろうが、僕は(自分を含め)みんな良くなってほしい!すべてが良くなってほしい!と強く思っている。それでも僕は必ずしもお人好しではないし、単純素朴というわけでもないのだが(自分自身の問題に手を焼いているのである)。しかしひそかに情熱を燃やしていて、自分が役に立つだろう(たぶん)というときには、自分の賢さとそれに裏打ちされた優しさをすべて働かせ、まさしく「すべてを良く」するのである。(僕は理想主義的なところがあって、そのために空回りすることが結構ある。)
僕はほとんど世間のことを知らない! 知っていることと言えば、自分の数少ない人間関係のなかで起こった(と見える)ことと、物語のなかで起こったことだけである。僕は完全に一人きりというわけではないけれど、家にこもろうがこもるまいが誰にも気づかれないくらいには一人きりの生活を送っていて、そういった生活のなかで、数少ない「知っていること」をもとにしながら、できるかぎりの想像力を働かせてものを考えたすえに、僕の「人間関係」観なるものはできている。ごくたまに人と飲みに行ったりすると、ほとんど恋愛と就活の話にしかならなかったりするけれど、そういうとき、僕は本当に何も考えが浮かばないし、何も言うことがなくなってしまうのだっだ。疎外感… でもなんか、別にいいやとも思っているのである。誰しも一人きりになる時期はあるだろうし、僕はたまたま大学に入ってすぐがそれだったというだけで、人には人それぞれの順番があるのだ。ずっと一人きりで、それが改善する見込みすらないとなると苦しいけれど(それはかつて僕が思っていたことなのだが)、そうでないのなら安心してよくて、そのときそのときで考えつつ行動していれば、おそらく何の問題もないはずだ。自分に言い聞かせているわけではなくて、確かに僕はそう信じているように思う。(本当のところで僕が何を信じているかなんて、この僕ですら分かりっこないのだけど。)
アリョーシャ…!! すごく正しいと思うよ、言葉とか行動とか……
人は誰でもたえず子どものように面倒を見てやらねばならない。誰かが僕に話しかけたりどこかに行こうと誘ってくれたりすることは、その人が僕を子どものようにかわいいと感じ、面倒を見なきゃと思うからそうするのであって、僕がその誘いを快く引き受けるのもやはり、僕がその人をかわいいと感じ、面倒を見なきゃと思う気持ちから来ていたりするのである。それはなんだか相手を子ども扱いしているみたいで侮辱的だと言う人がいるけれど、全くもってそんなことはなくて、人は誰でもかわいいし、僕がかわいいのと同じようにすべての人は子どもみたいにかわいいのだから、面倒を見なきゃならないし、面倒を見られなきゃならないのだ。もちろんこの表現にはかなりの誇張が含まれているのだけど、そうやって「かわいい子どもの面倒を見なきゃ」という相互の気持ちによってのみ、ようやく平和がおとずれるのである。家族でも恋人でも友人でもまったく知らない人どうしでも、いつもそういう気持ちによって支えられていなければならないのである。

星たち

行ったり来たりして もうしわけない 誰にも気づかれないように ひそかに 心を燃やしているのである あらゆる思考と それから感動 好きも嫌いも隠れてしまう ひそかな動機で ことは進む できごとは起こる 歴史は積みかさなる じっさいくだらねえと 思わんかい こんないい一日をまるまる おやじにくれちまうのがさ 深くもぐって 呼吸をとめて どこまでも深くもぐって 堕ちない程度に なにか分かれば それを秘密に ひそかな動機で ことを進めて ひとつひとつは必死に 大きな視点で 穏やかに 熱は散らばり 宇宙はふくらむ 星たちはすれ違い あいさつをする

世界性が失われる・大きな心持ち

僕はなんだかんだ冷たい(?)人間であるし、無尽蔵に優しさを持ち合わせているわけではなく、結局のところ「自分のこと」と関係があるから何かをするのであって、つい最近も「一緒にラーメン食べに行きませんか」と書かれたメモをくれた人に、まだ返事もしていないのである。その人がその提案をするにあたり、どれほどの勇気を振り絞っていたのか(あるいはもっと軽い気持ちによるものなのか)僕は知るよしもない。想像することはできるけれど。 僕はときどき(というか誰でも多かれ少なかれ)、ひとりの人間をこの世界から(一時的にせよ)弾き飛ばしてしまうくらいの力を持っていることがある。それは間違いなく「力」であると思う。僕はほとんど意図することなく、誰かを完膚なきまでに叩きのめしているのである。知らないうちに、あるいは「そうかもしれない(そうじゃないかもしれない)」と思いつつ。 僕がそういうことをあれこれ考えるのは、僕自身がこれまで何度も「世界から追い出された」みたいな気持ちを味わってきたからである。もしくは「世界性が失われる」と言ってもいい。まず初めに世界そのものがゆらぎ、そして最後がらがらと崩れ落ちる。「それが果たされないのであれば、その他すべてないも同然」となってしまう。 「ラーメンくらい食べに行ったらいいじゃないか」という意見も(僕の中には)ある。その「ラーメンの提案」にどれほどの意味が込められているのか、「その提案の同意」にどれほどの意味が込められてしまうのか、僕はほとんど分からないし、分からないからこれまでそういうことをわりと避けてきたのだけど、そうではなくて、僕はもっと柔軟になるべきではないか? (子供じみたことを言っていると思いますか? そう思う人たちはそう思う人たちだけがいる世界へ行ってしまえばいいのです。) これまでずっと僕は「自分のこと」だけで精一杯であった。他人との関わり合いにおいて、(誇張していえば)ゼロかヒャクかしかないようなところがあって、あまりにも柔軟性に欠けていたのである。「人間の心というものは、海みたいに途方もなくわけが分からないもので、それぞれの海を一人きりで泳いでいる僕たちは、自分の身体が沈まないようにしているだけで精一杯である」という状態だったのである( これです )。 だけど最近はもっとたくさんのことが分かるようになっていて、「他人の

ひそかな感動について

自分が今まさに感じていること(あるいは過去に感じたこと)について、それが何であるかを知っているとしか思えないような「他人」に出くわす瞬間がある。そのような「他人」との出会いにはたくさんの種類があって、実際にその「他人」と会って話をすることで分かることもあれば、その「他人」の文章や発言から、あるいはその「他人」の残した作品(例えば音楽)から、それがそうだと分かる場合もある。 そのような「他人」と出会ったとき、その感動を相手に(あるいは誰かに)伝えたいという衝動にかられるけれど、その試みはほとんどの場合うまくいかず、感動は自分ひとりだけの「秘密」になってしまうしかなくなる。それはその感動が、相手に自分を認識してもらうためのうかつな同調に取られる場合があったり、あるいはその可能性を危惧して最初からそれを伝えることを諦めてしまったり、その感動を説明するだけの語彙が自分になかったり、そもそも本当にそれは自分の感じていることとまったく同じなのか、確証が得られなかったりするためである。 しかももっとも面白くないのは、互いにそのような「秘密」を相手に抱いているのにも関わらず、それを伝えるすべを持っていないような場合で、そのようなとき、それがそうだと当人たちは知ることができないため、おそらく神さまにしか分からないような結びつきだけがそこに残ることになる。 人はあらゆる場面でそのような「秘密」をしぶしぶながら抱え込み、そのまま生きていくのである。しかもそれは時間を追うごとに増えていき、自分の中にある誰にも分かり合えない領域は、年を経るごとにますます広がっていく。誰にも打ち明けられることのない「秘密」はやがて「孤独」へと変わってしまう。辛うじてできることと言えば、誰かがどこか自分の見えないところで、自分に対してそのような「秘密」を抱いていると想像し、自分を勇気づけることくらいなのである。
できることなら、僕のまわりにいる僕とおなじくらいの年代(あるいは年下)の人たちにこちらから近づいていって、その人たち自らが「それが欲しい」とか「そんなの要らない」とか「意味が分からない」とか言うこともいっさい無視して、その人たちが「まさに必要としているもの」を的確に見きわめ、それを押しつけて去っていくみたいなことをしたいくらいなのだけど、僕はそれができるほどの賢さを持ち合わせてはいないし、長く生きているわけでもないし、勇気もないし、まず何よりもそういった行動自体が、僕の個人的なエゴと結びついている可能性を否定することなど決してできないので、多くの場合、こういったブログで長々と意味があるのかも分からない文章を書いていることしかできないのである。
恋人がいても、恋人以外の人と仲良くできなかったら、恋人ともいずれ仲良くできなくなるし、それは言い換えれば、「恋人がいようがいまいがどっちでもいい」といった状態でこそ、もっとも恋人と親密になることができるということであって…… 僕はかつてそういう考えを疑っていたし、今でも「どういった身の振り方をすればちょうどいいかなあ」と模索しながら動いているのだけど、とりあえず理屈としては「すべての人がすべての人と仲が良い」状態(「隣人愛」に満ちあふれた状態)がもっとも理想的なのである。 「放蕩の限りを尽くす」状態と「すべての人がすべての人と仲が良い」状態は、一見すると似ているように思えるときがあるが、じっさいはまったく異なっているどころか、まったく正反対であるといえる。 愛には「欲求としての愛」と「隣人愛」の二種類があって、僕たちは「隣人愛」が大きくなるための努力をみんなでしなければならないのだ。そのための身の振り方を覚えなければならないのだ。(その中には「他人とどうやって仲良くなればいいだろう?」という問題が含まれている。僕はまだ上手にできないのですが……)
『カラマーゾフの兄弟』が面白すぎる。なんだこれ! 長いし、多少は退屈するだろうと思って読みはじめたのに。

ものすごく軽いうつ

「自分を持て余している」みたいな時間がある。家にいても落ち着かないけどどこに行けばいいか分からないし、本を読みたい気分ではないし、聴きたい音楽もないし、何か書きたいこともないし、お腹は空いているけど何を食べたらいいか分からないし、誰かに会おうという気持ちにもならない、そういうときがある。何かが根本的に違っていて、居心地が悪いことだけは確かだけど、何をどう変更すれば正解なのか分からないのである。 今日は朝からそういう感じだったのだけど、コンタクトを入れたり寝癖を直したりするのは面倒だなと思いつつも、晴れていたから「外に出れば何かはましになるはず」と信じて出かける準備をし、昼過ぎ、お腹を空かせながら自転車を走らせた。 お腹が空いているから何か食べた方がいいと思いつつ、お金を払えば食べられるものの候補を挙げてみるのだが、どれも食べたいという気持ちにはならず、また、以前おなじような状態のときに気が進まないながらも食事をして、あまり楽しい気持ちにはならず後悔したことを思い出して、今日は昼食を食べないことにしようと心に決めた。 すると今度はどこに行こうかという問題になり、このまま適当に自転車を走らせるのも違うし、かといって「ここだ、ここに行こう!」と思えるような場所もないし……とあれこれ考えているうちに、結局いちかばちかコメダに行って本でも読もうという結論になった。うまくいくかもしれないし、いかないかもしれない。 結果的にはすごくうまくいった。今日はなぜかコメダに行って本を読むのが大正解だったのである。コメダで本を読んだりツイッターを眺めたりしているうちに、久しぶりに定食屋に行ってまともなものを食べたいという気持ちになり、夜七時頃、定食屋に行って「やきから(焼き肉と唐揚げ)定食」をお腹いっぱい食べ幸福感に包まれ、「このまま家に帰るのはもったいない!」と思ってスタバに行き、さらに二時間半ほど本を読んだ。その後、ようやく家に帰り、今この文章を書いているのである。 「そこに行ってみなければ(あるいはそれをやってみなければ)自分の求めているものが手に入るか分からない」というのはすごく不思議だが、困ったことである。はっきりいって、あまり良い状態とは言えない。たぶん「ものすごく軽いうつ」みたいな状態なのだと思う。(この状態がさらに悪化して、ほとんど家でのたうちまわってい
僕はおそらく人並みよりは自分の意見というものを持っているし、また、それの正しさもあるい程度までは信じている。しかし「自分の意見とは違う」という理由で誰かのことを嫌悪したり、誰かと仲良くしない、ということをしてはならないし、また、そういうことをしなさそうな人間であることが他人から見ても分かるように自分を「演出」しなければならない、とも今は思っている。 それは「あなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」といった、民主主義の考えからそうするのでは 決してない 。強いて言うなら「キリスト教的な」(あるいは単に「宗教的な」)考えからそうするのである。(だからといって僕は出家をするわけではないし、日曜日にミサに行くわけでもないので、いわゆる「信仰のある人」ではないことは書いておかなければならない。)
まだ仲良くなっていない子どもに話しかけるとき、僕は(子ども相手であろうと)緊張しているし、どうしても最初は敬語を使ってしまうし、上司に「もっと明るく!」と言われるくらいには無愛想なのだが、あまりそういうこととは関係なしに子どもは僕を「いい人だ!」認定してくれる。「いい人だ!」認定されると向こうから話しかけてくれるようになる。すごい。仲良くなった子どもとは目があうだけですでに楽しい。ふだん僕をばかにしてくる中三男子に「先生は先生という感じではない。おもしろい。先生みたいな先生に会ったことがない」という(たぶん)褒め言葉をいただいた。小学生はときどき意味の分からないことを言うので、僕も負けじと意味の分からないことを言うようにしているのだが、だいたいスルーされる。おもしろい。
『犬は吠えるがキャラバンは進む』と『イマジン』というアルバムをたくさん聴いた。聴けば、どういう心持ちでいればいいのかが分かるし、これから何をするべきかもよく分かる。僕はこのふたつのアルバムを尊敬している。「分からなくなったらいつでもここに戻ってくればいい」ものとして聴くべきアルバムである。それ以外に説明のしようがない。何を言っても陳腐になってしまいそうである。 いつも自分のなかにある「心みたいなもの」と対峙している。それは僕だけではなくて誰でもそうだと思う。思考やら感情やらが混ざり合ってぐちゃぐちゃしている塊(あるいは影?)みたいなものを、僕がじっと見つめているのである。その塊は僕の背丈よりも大きい。僕はその塊の動きをいくらかコントロールすることができる。しかし完全に自分の思い通りにすることはできない。人は自分よりも大きいものを完全に思い通りにすることはできない。 おととい『アンナ・カレーニナ』を読み終わった。これまで読んだ小説の中でいちばん長かった。退屈しなかったと言えばうそになるけれど、キチイはかわいいしリョーヴィンは愛すべき人間である。「愛すべき人間」かどうかでいえば、アンナもヴロンスキーも「愛すべき人間」である。トルストイはこの小説に出てくるすべての登場人物を(とりわけアンナを最も)「愛すべき人間」として描いている。
これまでと違う、まったく新しいことを書いていきたいと思うんだけど、何を書けばいいだろうか? 例えばそれは、このブログを読む人(それから僕自身)にとっての心の支えの一部になり得るようなものがいい。このブログを読む人が誰であれ(僕のことが嫌いな人であれ、僕とまったく意見を異にしている人であれ)不快な気持ちにはならないようなものがいい。力のおよぶ限り「心持ちを大きく」して書かれる、誰のことも排斥しない種類のものがいい。いったい何を書けばいいだろうか。 自分の考えをそのまま書く必要はあまりないのかもしれない。そうではなくてもっと具体的なこととか、簡単なこととか、生活に関することを書いてみるのがいいかもしれない。だからといって、僕がこれまで考えてきたことがそこに表れないということではなくて、それによってむしろより正確にものを伝えることができるのではないかと思う。何かを伝えようと必死になるよりも、ただ書いているほうが結果としてちゃんと伝わるのではないか? ということで、これからのブログは「日記」と呼ぶにふさわしい類いの文章が増えていくかもしれません。「こんなこと、誰が好き好んで読むのだろう? せっかく書く内容がこれでいいのだろうか」と僕が思いたくなるような種類のことを、たくさん書いていくことになるかもしれません。その代わり僕は、なんの誇張も矮小もなく、強がりも弱がりもなく、できるだけ正直な気持ちになってものを書くことが(これまでよりもさらに)できるだろうと思っている。

ここは海

ここは海 僕らは船員 神さまを信じられなくなった人の 想像力が嫉妬を持ちこむ 船はゆれる 視界もゆれる 嵐よどうかしずまって ここはヴェトナム 僕らは戦友 あるはずのない音楽が流れ すべては霧に包まれる しっかりしろと 声がする 僕の気はたしかだと僕は思う ここは砂漠 僕らは羊 先頭には光る子羊 列をなして歩きだす いなくなった一匹を探す羊飼いに 僕らは導かれる 暗闇に追いつかれないように ここは宇宙 僕らは衛星 星たちはすれ違う 近づき近づき 遠ざかる あいさつだけは忘れないで 数億年後にまた会おう さみしくなったら思いだして

雑文(エゴについてのまとめ)

好むと好まざるとに関わらず、すべての事象には原因があって、その原因にもやはりおなじように原因があるのだ。誰かのことを批判したくなったとき、あるいは世界そのものを批判したくなったとき、それこそが自分のエゴであると解釈しつつも、その「批判したくなる気持ち」にもやはり原因があるのだと理解して、自分を責めることもまたしてはならない。 「何がエゴであって何がエゴでないか、それを決めるなんて、まったくの話、キリストその人でもなきゃできないことなんだよ」。誰かが僕に対して「良かれ」と思ってしてくれたこと、あるいは頼み事、あるいは単に好意を寄せていること、それらに対して「それはあなたのエゴである」と決めつけ、批判する「資格」など僕にはない。というより、そんな資格は誰にもないのだ。それこそ、キリストその人でもなきゃできないことである。 人が見ていないところで人のために何かをすること。そしてすべての人が、自分の見ていないところで自分のために何かをしてくれている他者について、想像力を働かせること。人は、自分の見える視野からは、自分ばかりが人のために何かをしているように見えてしまうものだ。お互いに、自分の見えないところで自分のために何かをしてくれている他者の存在を信じることができなければ、どんな平和も維持されない。 自らのエゴ(の可能性)についてはすすんで認め、反省し、許しをこうこと。人間がどうしようもなく人間であるということは、自分のなかにあるエゴについて、ひたすら神さまに許しをこい続けなければならないということである(原罪? これはあまりにも宗教チックに思われるだろうか)。 できることとできないことがあることを理解して、また自分の欲求(エゴ)を理解して、その上で誰とどのように仲良くするのか(あるいは仲良くしないのか)を決めなくてはならない。
・不安にならない ・卑屈にならない ・いらいらしない ・嫉妬しない ・攻撃的にならない 幸せになりたいと思っているだけだし、そのために真面目に考えて、ぎりぎりのところで意思決定し、行動している僕のことを、誰も攻撃することなどできない(資格などない)はずだ。誰も、誰かのことを攻撃することなどできないはずだ。
もっといろいろなことが上手にできたらいいと思う。人並みにできないこともたくさんあって、人並みにできるようになりたいと思う。でもどこが上手にできていないか、どこが人並みにできていないか、それを自分で正確に把握するのは簡単なことではない。想像力を必要とする。考える時間を必要とする。ときどきアドバイスも必要とする。多くの場合、アドバイスをする方にはリスクがともなうから、いつでも必要なときに必要なアドバイスが飛び交うわけでもない。まず、何よりも、人は他人の脳みその中身を見ることができない。それどころか「一般的にはこうする」といった模範も、あってないようなものである。人は、ひとりひとりがまったく異なった、ユニークな存在であり、「一般的」「普通」「常識」といった概念自体も不確かであるから、それらの言葉を持ち出してきて自分の行動を省みることにもやはり限界があるのだ。 もっといろいろなことが上手にできたらいいと思う。人並みにできないこともたくさんあって、人並みにできるようになりたいと思う。そのための努力もしたいし、してもいる。「どうしたらいいだろう? 何が正解だろう…」と思いながら、辛うじて「これが最善だ」と信じられる行動をとる。それしかできることはない。それ以上のことは運しだいである。 もっといろいろなことが上手にできたらいいと思う。

問題を抱えている人

緊張や怯えのあまり「その場にいる人たちの一挙一動、見逃しません」みたいな目つき、表情、態度になってしまうことが僕にはあった(今も少しある)けど、そういうとき、僕はその場にいる人たちを怖がらせていたらしいのである。僕が怖がっていることによって、反対に、なぜか僕が怖がられてしまうという現象。 でも中には、僕を一目見て「この若者は問題を抱えているのだ、だから強い目つきをしているのだ」というのを理解した人もいただろう。その人たちは「どうやってこいつの問題を解決すればいいのだろう。警戒を解くには? 問題を吐き出させるためには?」と頭を悩ませてくれたのだろう。僕はそういう人たちに感謝しなければならない。 『フラニーとズーイ』という小説で、ズーイは問題を抱えている妹のフラニーに対して、たくさんの言葉を使い、文字通り「まくしたてた」。家族どうしだから許されるということもあるけれど、ズーイがまだ若く、彼自身も悩んでいるひとりの人間であるということも関係していただろう。 対して『レイニー河で』という短編にて、老人は、問題を抱えているオブライエンに対して、ほとんど何も言わなかった。「何も質問せず、余計なことはただのひとことも言わず。彼は私を中に入れた。いちばん大事なときに、彼はそこにいたのだ——何も言わず、しっかりと気を配って」。そして、老人がオブライエンの核心に迫ろうとして喋った唯一の言葉が、「イエス様はいなさるぞ」である。 僕が問題を抱えているとき、人は僕をどうしようとしてくれているのか、僕はかつてより豊かに想像することができる。また、誰かが問題を抱えているとき、僕はいったい何をすればいいのかということも、かつてよりは豊かに想像することができる。問題を抱えているときの助けられ方(かた)にしても、問題を抱えている人を助けようとするやり方にしても、学ぶべきことがあり、向上があるのだ。

人に優しくできるか

恋人がいたとしても、友達・家族と仲が良くないのであれば、人は、その恋人からの愛をも信じられなくなる。 友達・家族がいたとしても、隣人と仲が良くないのであれば、人は、その友達・家族からの愛をも信じられなくなる。 コンビニで買い物をするとき、僕が店員さんと目も合わせないで会計を済ませるとしたら、まさにそのことが原因で、その店員さんが自分の家族に暴力をふるってしまう、ということは十分にあり得る。 「店員さんと目を合わせて会計しないやつは悪いやつ」と言っているわけではない。原因と結果を述べているだけである。目を合わせることが難しい人はたくさんいるし、そのことでその人たちを責めてはいけない。 むしろ、優しくしなければいけない。 それが、それこそが、この文章の言いたいことである。 人間は、人に優しくされないのに、人に優しくすることはできない。だから、人に優しくない人に対しても、あなたは優しくしなければいけない。それができないのであれば、それができないくらいにしか、あなたは人に優しくされていないのである。
自分の気持ちですら、すべてを正確に把握することはできないので、僕の行動の裏にひそんでいるかもしれない不誠実な動機について、誰かが僕に指摘したとしても、「まったくそうではないとは言い切れない、でもそうではないと思う」程度の反論しかすることができない。というか、そんなことは(多くの場合)指摘されるまでもなく、自分でちゃんと分かっているのだ。僕は自意識がたくさんあるので、それなりに深い内省をしてからじゃないと何も行動できないのだから。
「目には目を、歯には歯を」↔「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい」

気をつけていること

このブログに書かれている事柄から、特定の誰かに対する僕の具体的な気持ち(あるいは批判)を推測することはできないし、意味がない。また、それができないように、特定の誰かに対するメッセージを含んでしまわないように、できるだけ読む人の自意識を刺激しないように、僕は努力しているつもりである。 もちろん僕は自分の頭のなかにあることを書くしかないし、自分自身に関することと他の誰かに関することを完全に切り離すことは現実的に不可能である。だからこのブログを読む人が、自分への何らかのメッセージが含まれているように感じたとしてもまったく不思議ではないし、その人が自意識過剰だともいっさい思わない。 しかし僕は、特定の誰かに対する何らかのメッセージが含まれていると思われかねない文章を書いてしまったな、と感じたときには、それをやんわり否定するような他の文章を書いたりすることすらある(わざと真意を悟られないように「うそ」をつく)。そしてすべてを「埋没」させてしまうのだ。そこからメッセージを見つけだすことに意味はなくなる。 だからくり返し書くけれど、このブログの内容から僕自身がどういう人間であるかを推測することはできても(それは僕がひそかに望んでいることでもある)、特定の誰かに対する僕の具体的な気持ち(あるいは批判)を推測することはできないし、意味がない。 (なんでいきなりこういう注意事項を述べたのかというと、これから人と関わることが増えていくだろうからです。考えが外に向いているから。)
僕はいま、僕がこれからどういう指針で、どういう姿勢で、どういう心持ちで生きていけばいいのか、分かる! それだけで嬉しい。なぜならずっとそれが分からなくて、混乱していて、行き場のない怒りを持っていて、それを誰かにぶつけることもできず、一人で地団駄を踏んで、歯を食いしばって、おびえていたんだから…(一体どうしろっていうんだ?) どうすればいいか、いまは分かる。もちろんそれは暫定的なものにすぎないし、いつかまた分からなくなるときがくるだろう。しかしそれでも、ひとつ乗り越えているかいないかの違いは大きい。仕組みは理解した、怖いものはない(といまは思うことができる)。

確かなもの・人生

自分の考えることはすべてある種の幻想をはらんでいる。「物事をありのままに見る」というのはとても難しい。というか、不可能である。何かを「見る」とき(判断するとき)、人は過去に経験した物事からそれが何であるかを推測(=想像)することしかできない。しかも人には「願望」「理想」というものがある。「こうあってほしい」「こうあるべきである」という気持ちが、実際に「ある」姿を歪めてしまうこともあるのだ。 「確かなものなど何もない」と言うことができる。状況にしても、自分の考えることにしても、自分の「僕はこう思う」と述べたことにしても、人が「私はこう思う」と述べたことにしても、それが実際にそうであるとは限らない。誤解されると困るのだが、僕は「何が正しいかなんて分からない」という話をしているのではない。「確かなものなど何もない」という話をしているのだ。 「確かなものなど何もない」世界を受け入れることは難しい。僕たちは確かな世界に触れることもできなければ、確かな他人と通じあうことも、確かな自分自身に出会うこともできない。「これは確かだ」と言えるものが何もないのだ。誰も彼もが、誰とも何とも自分自身とも結びついていない、砂漠を(あるいは宇宙を)さまよっている異邦人なのである。 しかし「確かなもの」がなくても、幸せに生きていくことはできる。それが実際には何なのか分からなくても、「楽しみ」を享受することはできる。その「楽しみ」の正体が分からなくても、それが継続して与えられていれば、やがて人生の「楽しみ」を信じるようになる。ひとつの「楽しみ」を失っても(期待を裏切られても)、人生から与えられる「楽しみ」の量はそこまで小さくならないと思うことができる。特定の誰かや何かに対してではなく、人生そのものに対して「期待」することができるようになる(期待感=元気)。不安に思う必要はなくなる。

スーパーマンになりたい

andymori の「スーパーマンになりたい」がすごくいい歌詞なので見てほしい! たった一度だけでいい スーパーマンになりたい 世界中の争いを憎み 世界中を愛し戦うスーパーマンになりたい たった一度だけでいい スーパースターになりたい 世界中の人々に愛され 世界中の美女とやりまくるスーパースターになりたい スーパーマンは「世界中を愛」するのに対し、スーパースターは「世界中の人々に愛され」るのである。そこの対比がおもしろく、実によくできている! つまりスーパーマンは真に「利他的」であり、スーパースターは真に「利己的」であると言うことができる。(現実にスーパースターと呼ばれている人たちが「利己的」であると主張しているわけではない。この歌詞で表現されている「スーパースター」の意味するところでは、ということでしかない。個人的には、ビジネス界隈で幅を利かせている人たち(オンラインサロンとかやってるやつら、お金をばらまいてる人とか)はみんな「利己的」だと僕は思っていますけど……。ごめんなさい。) では、スーパーマンは「世界中の人々に愛され」ていないのか。スーパーマンは「世界中を愛」することによって、同時に「世界中の人々に愛され」てもいるのではないか? ……いや、「愛されていない」と言うことができると思う。それはスーパーマンが自らの正体を明かしていない(無名である)ことから明らかである。自らの正体を明かさないことによって、スーパーマンはその名声を自分のものとしない。見返りを受けることを最初から放棄しているのだ。 誰の心のなかにも(この曲をつくった小山田壮平のなかにも)「スーパーマンになりたい」自分と「スーパースターになりたい」自分とがいて、人はことあるごとにそのふたつの自分に挟まれ、葛藤している。 歌詞のなかで「スーパーマンになりたい」と「スーパースターになりたい」はまったくおなじ回数だけ歌われるのだが、題名を「スーパーパンになりたい」にしているところから、かろうじて(?)「スーパーマンになりたい」の優位が見られるのがいいですね…

利他的・利己的(愛する・愛される)

「利己的である」とは(僕がいま考えているかぎりでは)、他者から「愛されよう」「与えられよう」「理解されよう」とする態度のことであり、さらにいえば「(自己が)愛されるためにしか(他者を)愛さない」「与えられるためにしか与えない」「理解されるためにしか理解しない」態度のことである。 反対に「利他的である」とは、「(自己が)愛されるより先に(他者を)愛する」「与えられるより先に与える」「理解されるより先に理解する」態度のことである。真に「利他的な」人は、他者からの見返りを一切必要としない。そのため「利他的な」人は、自分が誰かにしてあげたことの見返りがなかったとしても、まったく傷つくことがない。そして「嫉妬」という感情を持たない。 ひとりの人間が「利他的である」ためには、努力が必要である以上に、その人がこれまでどれくらい他者から「愛され」「与えられ」「理解され」てきたかどうかに依るところが大きい。そのため、 ある人が「利己的である」からといって、その人を責めることは一切できない (叱ることはできるかも) 。 自分がそのとき「利他的である」ならば、その人を責めるのではなく、「愛し」「与え」「理解し」ようとしなればならない。自分がそこまで「利他的」ではない場合には、その人との関係を切ってしまうしかないだろう。その場合もおなじように、それが理由で自分自身を責めることはできない。 世の中を良くする(「利他的な」人の数を増やす)ために何かできるのは「利他的な」人だけである。より正確には(人は誰しも「利己的である」か「利他的である」かのどちらかではなくその間のどこかの地点にいるのだ、ということを踏まえると)、より「利他的な」人が、自分よりも「利己的な」人のことを「愛し」「与え」「理解し」ようとすることでしか、世の中を良くすることはできない、と言うことができる。
この前、会って二回目くらいの人と恋愛の話をしなければいけなくなり(会って二回目でも盛り上がれる話題は「恋愛」であると相場が決まっているらしい)、でもまさか会って二回目の人に「『恋愛などない』という説があって…」と言うわけにもいかないし、というかそもそも会って二回目の人に自分の恋愛について何か喋ろうという気に僕はならないから、「うーん」とか「あー」とか言ってごまかしていたら、相手に「きみはピンポンダッシュみたいなやり方で女の子と仲良くなろうとするだろ(原文ママではない)」とかなんとか言われてしまって、心の中で(ピンポンダッシュ…)と妙に納得してしまった。確かに僕はこれまで何度か、人と仲良くなろうとあれこれ頑張ってみるとなぜかピンポンダッシュしていた、という経験がありますね…

思惑

僕が一番やばかったとき(一ヶ月ほど前)、人が三人以上集まる場所に「思惑」が飛び交っているように見えることがあった。そして、できるだけそういう場所には行かないようにしよう、巻き込まれないようにしよう、と自分に言い聞かせていた。考えても考えても分からないとにかく辛い、となってしまうからである。 最初にそういう経験をしたのは、高校二年のときだったと思う。みんなは知っているのに僕にだけ知らされない何かがあるような気がした。そんなものなかったのかもしれないし、あったとしても仕方のないことだったのかもしれない。今となっては分からない。分からないまま、墓場まで行くのだろう。 でもとにかく、今は大丈夫なのである。不安に思う必要はないと知っているし、実感もしている。それはいろいろあったからである。自分ひとりで立ち直ったわけではない。人に手伝って(助けて)もらったのである。これは人に手伝ってもらわないとなくならない種類の現象(症状?)なのだろう。 でも、まだ自分の中で終わったわけではない。この現象とはいったい何なのか。どうすれば人はそれを感じなくて済むのだろう。どうして僕はそこから立ち直ることができたのだろう。自分の近くにそうなっている人がいたら、僕は何をすればいいのだろう。それを最近ずっと考えている。
僕は自分のことを明かさなすぎているだろうか。どうだろう。他の人はどれくらい自分を公開しているのだろう。公の場で、あるいは友だちに、家族に。
「分からないことは怖いことではない」。それが分かるためにはどうすればいいだろうか。たぶん言葉だけで理解するのは無理だろう。「分からないことは怖いことではない」と自分に言い聞かせても意味はない。自分ひとりではどうしようもないのだ。まわりの人たちの助けが必要だ。
たくさん文章を書いてる人って、やっぱりちょっと怖いよね!という気持ちが少しある。バイト先の人がこのブログの存在を知ったら、僕のことを怖いと感じるようになるだろうか。