世界性が失われる・大きな心持ち

僕はなんだかんだ冷たい(?)人間であるし、無尽蔵に優しさを持ち合わせているわけではなく、結局のところ「自分のこと」と関係があるから何かをするのであって、つい最近も「一緒にラーメン食べに行きませんか」と書かれたメモをくれた人に、まだ返事もしていないのである。その人がその提案をするにあたり、どれほどの勇気を振り絞っていたのか(あるいはもっと軽い気持ちによるものなのか)僕は知るよしもない。想像することはできるけれど。

僕はときどき(というか誰でも多かれ少なかれ)、ひとりの人間をこの世界から(一時的にせよ)弾き飛ばしてしまうくらいの力を持っていることがある。それは間違いなく「力」であると思う。僕はほとんど意図することなく、誰かを完膚なきまでに叩きのめしているのである。知らないうちに、あるいは「そうかもしれない(そうじゃないかもしれない)」と思いつつ。

僕がそういうことをあれこれ考えるのは、僕自身がこれまで何度も「世界から追い出された」みたいな気持ちを味わってきたからである。もしくは「世界性が失われる」と言ってもいい。まず初めに世界そのものがゆらぎ、そして最後がらがらと崩れ落ちる。「それが果たされないのであれば、その他すべてないも同然」となってしまう。



「ラーメンくらい食べに行ったらいいじゃないか」という意見も(僕の中には)ある。その「ラーメンの提案」にどれほどの意味が込められているのか、「その提案の同意」にどれほどの意味が込められてしまうのか、僕はほとんど分からないし、分からないからこれまでそういうことをわりと避けてきたのだけど、そうではなくて、僕はもっと柔軟になるべきではないか? (子供じみたことを言っていると思いますか? そう思う人たちはそう思う人たちだけがいる世界へ行ってしまえばいいのです。)

これまでずっと僕は「自分のこと」だけで精一杯であった。他人との関わり合いにおいて、(誇張していえば)ゼロかヒャクかしかないようなところがあって、あまりにも柔軟性に欠けていたのである。「人間の心というものは、海みたいに途方もなくわけが分からないもので、それぞれの海を一人きりで泳いでいる僕たちは、自分の身体が沈まないようにしているだけで精一杯である」という状態だったのである(これです)。

だけど最近はもっとたくさんのことが分かるようになっていて、「他人のこと」を考えることができる「大きな心持ち」がこの世界にはあるのだ、ということを知った。できることなら僕もそういう心持ちを手に入れたいと思っているし、今ならそのための試行錯誤もできるのではないかと考えている。そしてまさにそういう心持ちだけが、最終的に僕自身のことを解決してくれるのかもしれないのだ。



簡単なことではないと思う。「自分のこと」と「他人のこと」を考え、もっとも良い状態にもっていくというのはたぶん本当に難しい。それができないくらいなら最初から関わりを持たない方がはるかにマシだった、ということにもなりかねない。

この文章において、自分がどれくらい正しくものを考えられているのかすら、僕はいまいち分からない。まったく的外れなことを書いている可能性すらある。「一般的な考え」というものがあるのなら誰も迷うことはないのだけど、それがないからこそ、いろんな考え(憶測)が飛び交っているのである。この文章もそういった憶測のひとつなのである。