確かなもの・人生

自分の考えることはすべてある種の幻想をはらんでいる。「物事をありのままに見る」というのはとても難しい。というか、不可能である。何かを「見る」とき(判断するとき)、人は過去に経験した物事からそれが何であるかを推測(=想像)することしかできない。しかも人には「願望」「理想」というものがある。「こうあってほしい」「こうあるべきである」という気持ちが、実際に「ある」姿を歪めてしまうこともあるのだ。

「確かなものなど何もない」と言うことができる。状況にしても、自分の考えることにしても、自分の「僕はこう思う」と述べたことにしても、人が「私はこう思う」と述べたことにしても、それが実際にそうであるとは限らない。誤解されると困るのだが、僕は「何が正しいかなんて分からない」という話をしているのではない。「確かなものなど何もない」という話をしているのだ。

「確かなものなど何もない」世界を受け入れることは難しい。僕たちは確かな世界に触れることもできなければ、確かな他人と通じあうことも、確かな自分自身に出会うこともできない。「これは確かだ」と言えるものが何もないのだ。誰も彼もが、誰とも何とも自分自身とも結びついていない、砂漠を(あるいは宇宙を)さまよっている異邦人なのである。

しかし「確かなもの」がなくても、幸せに生きていくことはできる。それが実際には何なのか分からなくても、「楽しみ」を享受することはできる。その「楽しみ」の正体が分からなくても、それが継続して与えられていれば、やがて人生の「楽しみ」を信じるようになる。ひとつの「楽しみ」を失っても(期待を裏切られても)、人生から与えられる「楽しみ」の量はそこまで小さくならないと思うことができる。特定の誰かや何かに対してではなく、人生そのものに対して「期待」することができるようになる(期待感=元気)。不安に思う必要はなくなる。