問題を抱えている人

緊張や怯えのあまり「その場にいる人たちの一挙一動、見逃しません」みたいな目つき、表情、態度になってしまうことが僕にはあった(今も少しある)けど、そういうとき、僕はその場にいる人たちを怖がらせていたらしいのである。僕が怖がっていることによって、反対に、なぜか僕が怖がられてしまうという現象。

でも中には、僕を一目見て「この若者は問題を抱えているのだ、だから強い目つきをしているのだ」というのを理解した人もいただろう。その人たちは「どうやってこいつの問題を解決すればいいのだろう。警戒を解くには? 問題を吐き出させるためには?」と頭を悩ませてくれたのだろう。僕はそういう人たちに感謝しなければならない。



『フラニーとズーイ』という小説で、ズーイは問題を抱えている妹のフラニーに対して、たくさんの言葉を使い、文字通り「まくしたてた」。家族どうしだから許されるということもあるけれど、ズーイがまだ若く、彼自身も悩んでいるひとりの人間であるということも関係していただろう。

対して『レイニー河で』という短編にて、老人は、問題を抱えているオブライエンに対して、ほとんど何も言わなかった。「何も質問せず、余計なことはただのひとことも言わず。彼は私を中に入れた。いちばん大事なときに、彼はそこにいたのだ——何も言わず、しっかりと気を配って」。そして、老人がオブライエンの核心に迫ろうとして喋った唯一の言葉が、「イエス様はいなさるぞ」である。



僕が問題を抱えているとき、人は僕をどうしようとしてくれているのか、僕はかつてより豊かに想像することができる。また、誰かが問題を抱えているとき、僕はいったい何をすればいいのかということも、かつてよりは豊かに想像することができる。問題を抱えているときの助けられ方(かた)にしても、問題を抱えている人を助けようとするやり方にしても、学ぶべきことがあり、向上があるのだ。