雑文(エゴについてのまとめ)

好むと好まざるとに関わらず、すべての事象には原因があって、その原因にもやはりおなじように原因があるのだ。誰かのことを批判したくなったとき、あるいは世界そのものを批判したくなったとき、それこそが自分のエゴであると解釈しつつも、その「批判したくなる気持ち」にもやはり原因があるのだと理解して、自分を責めることもまたしてはならない。

「何がエゴであって何がエゴでないか、それを決めるなんて、まったくの話、キリストその人でもなきゃできないことなんだよ」。誰かが僕に対して「良かれ」と思ってしてくれたこと、あるいは頼み事、あるいは単に好意を寄せていること、それらに対して「それはあなたのエゴである」と決めつけ、批判する「資格」など僕にはない。というより、そんな資格は誰にもないのだ。それこそ、キリストその人でもなきゃできないことである。

人が見ていないところで人のために何かをすること。そしてすべての人が、自分の見ていないところで自分のために何かをしてくれている他者について、想像力を働かせること。人は、自分の見える視野からは、自分ばかりが人のために何かをしているように見えてしまうものだ。お互いに、自分の見えないところで自分のために何かをしてくれている他者の存在を信じることができなければ、どんな平和も維持されない。

自らのエゴ(の可能性)についてはすすんで認め、反省し、許しをこうこと。人間がどうしようもなく人間であるということは、自分のなかにあるエゴについて、ひたすら神さまに許しをこい続けなければならないということである(原罪? これはあまりにも宗教チックに思われるだろうか)。

できることとできないことがあることを理解して、また自分の欲求(エゴ)を理解して、その上で誰とどのように仲良くするのか(あるいは仲良くしないのか)を決めなくてはならない。