ひそかな感動について

自分が今まさに感じていること(あるいは過去に感じたこと)について、それが何であるかを知っているとしか思えないような「他人」に出くわす瞬間がある。そのような「他人」との出会いにはたくさんの種類があって、実際にその「他人」と会って話をすることで分かることもあれば、その「他人」の文章や発言から、あるいはその「他人」の残した作品(例えば音楽)から、それがそうだと分かる場合もある。

そのような「他人」と出会ったとき、その感動を相手に(あるいは誰かに)伝えたいという衝動にかられるけれど、その試みはほとんどの場合うまくいかず、感動は自分ひとりだけの「秘密」になってしまうしかなくなる。それはその感動が、相手に自分を認識してもらうためのうかつな同調に取られる場合があったり、あるいはその可能性を危惧して最初からそれを伝えることを諦めてしまったり、その感動を説明するだけの語彙が自分になかったり、そもそも本当にそれは自分の感じていることとまったく同じなのか、確証が得られなかったりするためである。

しかももっとも面白くないのは、互いにそのような「秘密」を相手に抱いているのにも関わらず、それを伝えるすべを持っていないような場合で、そのようなとき、それがそうだと当人たちは知ることができないため、おそらく神さまにしか分からないような結びつきだけがそこに残ることになる。

人はあらゆる場面でそのような「秘密」をしぶしぶながら抱え込み、そのまま生きていくのである。しかもそれは時間を追うごとに増えていき、自分の中にある誰にも分かり合えない領域は、年を経るごとにますます広がっていく。誰にも打ち明けられることのない「秘密」はやがて「孤独」へと変わってしまう。辛うじてできることと言えば、誰かがどこか自分の見えないところで、自分に対してそのような「秘密」を抱いていると想像し、自分を勇気づけることくらいなのである。