ひねくれている

 僕は本当に性格がひねくれていて、しかもどうにも直しようがないのは、他人の言動を頭の中で評価せずにはいられないという点である。いろんな人の、いろんな発言や行動を見て、大抵の人ならそんないちいち思わないことまで、思ってしまう。大抵の人ならそんないちいち思わないことも分かっているので、それを吐き出さずに頭の中だけで留めておく。「思ってしまう」のは抑えようにも抑えられないから、頭が忙しい。だから、それをそっちのけにしてその場に繰り広げられている「楽しみ」みたいなものを、他のみんなと一緒になって享受できないのだ。僕だって、そんな「正しい」認識かも分からないようなもの、抑えられるもんなら抑えたい。「そんなお前の小さい脳みそで、あれこれ判断すんなよ」と、自分に対して思う。僕だったら、僕みたいな人間と接するのは怖いし、また、そんなにいろいろ思うことに価値もないだろ、と思う。「楽しみ」を削ぐだけだ。
 事実、僕は自分の目を一番怖がっているように思う。僕がそこまで深く考えずにした発言や行動は、他人から見たらどのように映るだろうか? というのを、後から不必要なまでに考えてしまい、自分を苦しめることがあるのだが、本当はこれは「他人から見たら」ではなく、「ひねくれた自分が、自分を俯瞰して見たら」である。つまり、僕がひねくれた精神でいつも他人の言動にあれこれ思ってしまうため、自分のまわりにいる人たちも、自分と同じくらい(とまでいかなくても、本来そうである以上に)ひねくれた精神であれこれ自分を評価してくると錯覚してしまうのだ(多分、「自意識過剰」と言う)。自分の目が、自分を苦しめているのである。(そして、数は少ないかもしれないけど、きっとおれと同じくらいひねくれている人も中にはいて、おれよりもひねくれている人もいないではないんだろう。彼らも、自分で自分を苦しめているのだろうか。あるいはそれを解決して、もっと強いレベルにいるのだろうか。)
 こんな文章を書いたら、人が離れていきそうだ。本人がそれを意図しない場合であれ、そんなあれこれ評価してくるやつと接したくなんかねえわ、というのは当然の反応である。最初の方に書いたように、僕だって僕みたいな人間と接するのは怖いと思うに違いない。しかしこれだけは分かって欲しいのだが、僕は、「思ってしまう」内容よりも、「思ってしまう」自分に対して一番ウンザリしている。相手のことを「くだらない」と思い腹が立つ以上に、「くだらない」と思ってしまう自分に一番腹が立ち、そして気が滅入る。全然くだらなくないことに対しても、「くだらない」とかいちゃもんをつけている自分を発見する。「思ってしまう」のは僕の勝手であり、全面的に僕が悪い。「そうやっていちいちあれこれ思って拒絶して、どんどんひとりになっていけよ」と思われるのが、一番怖い。もうちょっと柔らかい脳みそが欲しい。(しかし、これでも最近はかなり柔らかくなった方であるし、人と仲良くすることも覚えつつあるのだ。かつて、自分に対しても他人に対しても過激で、かなり苦しい時期があった。)

コメント