言葉がなければ、思考はできない。

 「考える」とは、「AとBの、どちらが正しいか考える」だと仮定します。実際は「どれが」だろうけど、話を簡単にするために「どちらが」にします。(物理や数学において、1次元で考えたあと3次元に拡張するのと似ている。2で考えたあとに、nを考えるのと似ている。)
 考えるためには、言葉がなければいけない。これは「言葉がなければ考える行為そのものができないよね、動物は考えられないのと同じように。」という意味ではない。(もちろんそれは正しいんだけど。)ここで言いたいのは、どんなに考えることが得意な人でも、AとBの両方の情報(Aに関する言葉、Bに関する言葉)が与えられなければ、「AとBの、どちらが正しいか考える」なんてことは一切できない、という意味である。どちらか一方に関する言葉だけではいけない。
 子どもの頃からAに関する言葉だけを聞かされ続け、Bの情報を与えられなければ、知らず知らずのうちにAだけが自分のすべてになり、「AとBの、どちらが正しいか考える」ことはできなくなる。それどころか、考えようとすら思うことができない。人間は、他の何かと比べることではじめて、その何かを疑うことができる。Bを与えられなければ、Aを疑うことすらできない。自分がAを正しいと信じていることにすら、気づくことはできないのである。
 極端な例をあげる。物心ついた頃からずっと、親から「2足す2は、5!」だと聞かされ続ければ、学校に入って「2足す2は、4!」であると教わるまで、「2足す2は、5!」であると信じて疑うことはできないだろう。それどころか、自分が「2足す2は、5!」を信じているとすら頭には浮かばない。あまりにも当たり前のこととして受け入れてしまっていて、思考の余地がそこにはないのである。学校に入ってはじめて、その子は衝撃を受ける! お父さん、お母さんは間違っていた! と。コペルニクス的転回である。(このとき、脳みそが喜ぶ。脳みそは言う、「おいしい!」)
 自分の思考は、これまで見たもの、聞いたこと、会った人にどうしようもなく依存しているのだ。触れる世界の大きさが、思考の大きさを決定する。見聞きする言葉の多さが、思考の多さを決定する。小さい場所で、少ない人と会い、ちょっとの本しか読まなければ、思考できることなんてたかがしれている。
 高校生までの少年、少女にとっては主に、家庭と学校の大きさ(というか小ささ)が、自分の思考の大きさである。親と教師の言葉が、自分の思考のほとんどすべてである。これほどまでに小さな思考で、僕たちは進路について決定することを要求されるのだ。「これほどまでに小さな思考で、僕たちが進路について決定することを要求されるのはおかしい」とすら、思うこともできないまま。
 言葉が思考を決定し、思考が行動を決定する。言葉はそれゆえ大きな力を持つ。「自由」という言葉を与えられなければ、自由について考えを巡らせること自体ができない。すると、自由を求めて行動することはできない。どんなに立派な人間でも、「おまえはクズだ」とだけ言われ続ければ、自分が立派だなんて思いもしないし、自分がクズだと思わされれば、クズとしての行動しかとれなくなる。(立派/クズ、という境界なんてあるのかどうかはさておき。)
 今だってそうである。僕は、知らず知らずのうちになにかを当たり前のこととして受け入れているはずだ。新しい言葉を与えられない限り、どう頑張っても僕はそれに気づくことはできない。それは、誰かに対する差別であるかもしれない。あるいは、社会的理想であるかもしれない。なるほど、ナチス・ドイツの時代にドイツで生まれた子どもが、どうしてユダヤ人が劣って「いない」だなんて考えることができるだろうか? 同じように、僕も誰かを差別しているかもしれない。であるならば、持つべきものは「自分はそんなことはしない!」という覚悟ではなく、「自分もそうであるかもしれない」という自覚である。
 「正しさ」に近づくために僕たちはまず、ありとあらゆるものを見て、ありとあらゆることを聞き、ありとあらゆる人に会うべきだ。そして、「ありとあらゆる種類の言葉を知」るべきだ。触れる言葉が多ければ多いほど、思考は強く大きくなっていくはずだ(と、僕は信じる)。(たくさんの言葉を知りすぎて、頭がパンクし、途方に暮れ、「正しさ」なんてない! と思えて仕方がなくなる話は、また今度!)

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