思考は入り交じる

 「考える」ことと「文章を作る」ことは、ほとんど同じようなもんである、と僕は考えている。ものを考えるとき、僕たちは頭の中で言葉を使っている。頭の中で考えるときには、自分にだけ理解できれば十分であるから、他人にも理解できる完全な文章を作る必要はない。対して、人に伝わるように話をしたり、文章を書いたりするときは、他人も理解できるように配慮しながら、文章を作る。前者と後者の違いは、自分にだけ理解できる文章を作るか、他人も理解できる文章を作るかの違いだけであって、両者の間に本質的な違いはない。したがって、「考える」ことは「文章を作る」ことであるし、「文章を作る」ことは「考える」ことである。
 「考える」は、基本的には一人で行うものである。(他人の頭の中を直接のぞくことなんてできないもんね。)しかし、僕の思考があって、あなたの思考があって、Aさんの思考があって…、という感じに、一人ひとりの思考が独立してある、というわけではない。僕たちの思考は常に、自分の見ているもの、聞いていること、会っている人に影響を受けている。「考える」とき、つまり「文章を作る」とき、僕たちは「言葉」を使っているため、特に、「言葉」を聞いたり読んだりすることは、自分のこれからの思考を大きく変化させると言えるだろう。僕が喋った「言葉」は、それを聞いた誰かのこれからの思考に(良くも悪くも)影響を与える。同時に、僕のこれからの思考は、誰かが喋った「言葉」によって、それを聞かなかったとしたらなっていたであろう思考とは異なったものになる。
 ここでいう「言葉」とは、「単語」という意味を持つだけではない。「表現」だったり、「構文」だったり、あるいはそのまま「文章」だったりする。「ある単語とある単語のセット」であったりもする。もしかしたら、一つの「思考」そのものであるかもしれない。
 そういった「言葉」を、僕たちはいつもあげたり、もらったりしているのだ。そして、そういった「言葉」の交換によって、僕たちの思考は入り交じる。僕が誰かと会話をすれば、僕とその人の思考は、交換された「言葉」を介して少し重なり、それが僕の新しい思考となる。そして今度はまた別の人と話をして、さらに思考は入り交じり、再び新しい思考に変化する。これを絶えず繰り返すことによって、一人ひとりの思考は絶えず変化し、もともと自分が持っていた思考は、小さくなりながらどんどん遠くへ伝播していく。つまり、僕の思考がこれから、削り削られ丸くなり小さくなって、パプアニューギニア人の知らない誰かの思考の、小さな小さな一部を担うなんてことにだってなるかもしれない! ってわけだ。おもしろいいっスねえ〜。(なお、若ければ若いほど、他人の「言葉」に強く影響を受け、思考は変化しやすいと思われる。僕は現在、ハタチ!)

コメント