誰か、絶対に信頼できる、一緒にいて安心できる人がいて、その人にならどんなことでも話せて、どんなことを話しても自分とその人との関係性が揺らぐことのない相手がいるというのは、本当に素晴らしいことだろう。今の僕にはいない。では、自分にかつてそういう人がいただろうか? と振り返ってみると、いなかったと思う。いや、「いなかった」というよりも、大学生になるまでは、そもそもそういう人の存在を必要としていなかった。「どんなことを話しても」以前に、何も特別話すことなんてない、打ち明けるべき事柄なんて、自分の中に何もなかった。
 浪人時代に、これまで考えたことのなかった、しかしずっと考えてみたかった世界をのぞき見て、その影響からか、大学生になってあれこれ一人で思いつくまま考えるのを楽しいと感じるようになって、そのうちにそれが習慣となった。
 考え始めた当初は主に、自分とはほとんど関係のないこと(科学とか、政治とか)についてあれこれ考えた。つまり、第三者としてものを考えていた。しかし、いつからかもっと主観的なテーマである「自分」について考えることが増えていった。「自分」といっても、一般的な「自分」ではなく、まさに「松岡大河」について。なにが好きなのかとか、どんな感情をもっているだとか、その感情をなぜ持つことになったかとか。
 そして、自分の中にあったけれどこれまではそれに対して鈍感であった負の部分にも、積極的に正面から考えるようになった。これについて正直に考えたりするのは非常に危うくて、その危うい感じは、そのときの僕のツイートを見れば分かる。この負の部分というのは、きっと誰しもがある程度は持っているのではないか。しかしそれに自覚的でない人は多い。それを自覚することは非常に辛いので、いろいろごまかして知らないままやり過ごしてしまうのかもしれない。僕は、この負の部分というのがおそらく軽い方だったので、まあ、なんとかごまかさず考えられたのだ、とも言える。
 そうこう考えているうちに、たくさん! 話す事柄ができた。これはかなり楽しいことである。たくさんの言葉を知ることができた。こうやってすらすら文章が書けているのもそのおかげだ。頭の中は常日頃から、いろんな言葉にあふれていて思考はやまない。
 しかし、ときどきそういった脳みそにうんざりすることがないでもない。言葉でいっぱいになった脳みそから、それらを吐き出したい! と思うことがある。それでツイッターとかブログとかで文章を書く。しかし理想は、どんなことでも話せる相手がいて、その人とひたすら会話をすることだろう。果たして、そういう人が今後自分には現れるんだろうか? ウーン。まあ、いなくてもなんとかやっていける気はしている。しかし、いたらなんて素敵だろうか! とは思う。ウーン、しかし、自分が誰かにとってのそういう存在になれるほうが、圧倒的に素敵かもしれんな。おれはどうせなんとかやっていけるし。(本当か!?)

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