倫理についての雑文

 良いことと悪いことが分かるからといって、自分なりの倫理的基準を持っているからといって、ちゃんとその通りに行動できるというわけではない。それでも私には、こういった基準なしではとてもじゃないけど生きていけないように思われる。私の心のなかではつねに、一方には良心、もう一方には欲望、怠惰がある。この二つははっきりと異なっているので、ごくごくまれにしか一致しない。こんなふうに、心のなかに二つの極があると考えてみる。そしてこれは私にとっては、なんというか……とても安心できる形である。

 このような形なしでは、心がばらばらになってしまうのではないか。引き裂かれる感じではなくて、四方に飛び散るといった感じがするのではないか。良いことをするにせよ、悪いことをするにせよ、それを眺めて評価できるということそれ自体がまず喜ばしいことである。当然そのような評価には間違いが含まれているはずである。これはどうしたって避けることができない。そしてそれを自覚することこそ、何にもまして大切な感覚であることは言うまでもない。

 何が良いことなのか、〈善〉とはいったい何なのか、こういった問題に答えることはできない。これまで多くの偉大な人たちがそれについて考え、いまだに答えが出ていないのだから、もし誰かがそれを知っているような顔をしていたらそれはその人の欠点である。善悪という概念を思い浮かべることはできるけれど、善悪をそれ自体として知ることは誰にもできない。私たちにできるのは、直観的に「あれは良いけど、これは悪い気がする」と思ったら、その理由を考えてみることである。正しい理由を与えることができるかもしれない、いや、それは正当化された自分の欲求、願望でしかないかもしれない。ここでは自分の心に公平であることが大切である。

 明るくて、開けていて、美しくて、完全なものというイメージが〈善〉にはある。それは遠くの方にある。あるとしたら上の方にあるだろう。それがある方向がそもそも上なのかもしれない。そしてそれは私自身とどれほど異なっていることか。だけどそれがあるから向かうべき方向が分かるのだし、心がどっちつかずになっているときの最後の決め手にもなるのである。世界の見方、物事の認識を与えてくれ、そのために涙を流すということも起こり得るのである。

コメント