雑文(新しいことは何も書いていないのだが)

どんな人も自分のことしか知らないし、自分の経験したことしか記憶にはないし、自分の考えることしか考えることはできない。それらを踏まえると(それらとは別に道徳とか常識とか社会的理想とかはあるにしても)人はほとんど自分の考えることを自分でコントロールすることなんてできないだろうと思う。

どんなに立派な人も、みっともない人も、生まれてから現在にいたるまでの連続を生きてきたわけで、その人にとってはその状態がもっとも自然なのである。悪くなっていく場合でも、徐々に徐々に悪くなっていくのであって、それに気づくことは難しいわけで、気づいたとしてももう手遅れだったりするわけで、だとしたらどうやってその変化に抵抗することができるだろうか? 他人の脳みそ(ふつうの脳みそ、立派な脳みそ)のことをちゃんと知ることはできないのにも関わらず、である。

ひとりの人間を理解し尽くすためには、その人自身になりきるだけでも足りなくて、神さまくらい全知全能の存在になるしか方法はない。だとしたら、分かったような姿勢で他人を評価(非難)することなど絶対にしてはいけないのである(自戒を込めて)。ただ想像力を膨らませること(しかもその想像力はできるだけ偏りのない公平なものでなければならない)しかできることはない。



それとは別に、誰と仲良くするか(したいか、するべきか)という問題はあって、これに関して僕はまだちゃんとしたやり方を得ていない。僕がなんの欲もない人間であったなら、誰とでも分け隔てなく仲良くするべきである(あるいは誰とも仲良くしない)。なぜなら「こいつは悪いやつだから仲良くしてやらない!」という言い訳(一般的な善悪を引き合いにした正当化)をすることはできないからだ。だから「この人とは仲良くするけれどあの人とは仲良くしない」という判断をするさい、完全に自分の問題(自分の欲とかエゴとか偏見とかの問題)として考えなければならないのである。

僕はというと、よっぽどの仲良くしたい理由があるか、自然に仲良くなってしまった場合を除いて、基本的に人と仲良くなろうと思うことは(こんなにはっきり言っていいものか分からないが)ない。些細なきっかけを重視して(何かの縁だと思って)誰とでも仲良くなってみよう、そうしたら人間関係が豊かになるかもしれない、と考えた時期もあったが、そういうやり方は僕には全然向いていないらしいのである。(僕には一度に多くの人間関係を維持するだけのキャパが致命的に欠けているのであった。途方もない配慮とメンタルが必要に思える。)だから僕にとっては、一人きりの生活!(はさすがに無理でもまあまあそれに近い生活)を充実させることがそれなりに必要なのである(と思っている、二〇二〇年一月二十六日現在)。