マインド・ゲームス

昨夜、ジョン・レノンの「マインド・ゲームス」という曲を聴きながらちょっと泣いた。「僕たちはマインド・ゲームをしている 一緒にね/壁を押しのけたり 種を植えたりしている」云々。

泣いているとき、泣いている自分の姿はどんなのだろう?という、泣いている人間にふさわしくない疑問がわいてきたりして、急いで泣くのを我慢しようとした。しかし実際のところ別にどっちでもいいことである、泣こうが泣くまいが。(念のため書いておくけど、僕は涙もろい人間では決してない。)



人間の心というもの(とかいってほとんど僕自身の心の話をするんだけど)は、海みたいに途方もなくわけが分からないもので、それぞれの海を一人きりで泳いでいる僕たちは、自分の身体が沈まないようにしているだけで精一杯である。

海の中で僕たちは、手に負えないくらいたくさんの思考と感情に押し寄せられ、息がつまりそうになりながらそれらを必死に乗り越えようとする。理解しようとする。そしてようやく落ち着いた頃には、家にいながらにしてあらゆる経験を経てきたかのような気持ちになっているのだ(感慨深さと精神疲労)。

まったく正反対の思考・感情が同時に押し寄せてくるとき、それらに押し潰されそうになる(あるいは引き裂かれそうになる)自分がいる(「ジェラス・ガイ」を歌っているジョン・レノンはとても苦しそうだ)。ふたつの思考・感情は互いに矛盾している。その矛盾を解消しないということは、どこかで自分の気持ちにうそをつかなければ(ごまかさなければ)ならないということだ。自分の気持ちにうそをつかなければならないということは、人前でもうそをつかなければならないということだ。本当にそうなのである。矛盾を放っておくと、いつか大切に想っている人たちの前でもうそをつかなければならなくなるときが来る。

大切に想っている人たちというのは、自分のことを理解してくれるかもしれない数少ない人たちのことである。その人たちにうそをつくということは、必死に理解しようとしてくれている人たちから遠ざかっていくことを意味する。それは自らを寂しい場所へと追いやってしまう行為である。

僕は理解しようとしている。あらゆる種類の心の動きを、なんの誇張も矮小もない適切な言葉で書き表そうと努めている。正直になろうとしている。なぜならそうすることが、自分自身を自分ではないものに完全に委ねてしまう(すべてを明け渡してしまう)ことを防ぐ、ただひとつのやり方だからである。