内的世界の探求

自分の外側にあるものが、自分の内側にあるものに入っていくことによって、人は楽しいとか苦しいとかいった感情を抱くことができる。このとき、外側にあるものは僕たちに「何らか」の印象を与えるけれども、その印象からどういった感情を引き出すかは、受け手側である僕たち人間に、いくぶん委ねられている。

物質的な富を充実させても、それを受け取る人間の精神的な営みが貧しければ、求めていたものは得られない。ここで言う「物質的」というのは、必ずしも物質(お金とか食べ物とか)のことではなく、社会的地位とか友人とか音楽とかいったものまで含む、現実世界のすべてのことを言っている。自分の外側にあるものすべてのことである。

逆にいえば、自分の内側にあるもの(精神的なもの)をいじくりまわして(?)、こちらが感じたいと思うことだけ感じることができるような内面を手にすることができれば、物質的な富を充実させる必要は一切なくなる(夢の中で暮らしているような状態)。でもこれはドラッグとか瞑想とかに走る極端な例であって、現実的な手段とは言いがたい。

しかしこの文章で僕が言いたいのは、自分の外側にあるものと内側にあるもの、その両方が、同じだけ大切なのであるということだ。つまり、僕たちはふつう幸せになりたいと願うとき、お金なり恋人なりが必要であると考えるけれど、それらとまったく同じくらい必死に、それらから「何らか」を受けとる自らの内面についても考えなければならない。



(外的)世界ではなく、内的世界の探求……。「私は何を感じ、考えているのだろうか」から始まる。それは「私とは一体なんなのか?」という形をとることもある。しかしこれらの段階では、まだ、疑問を投げかける「私」と投げかけられている「私」との間には適切な距離がある。それを近づけていくと最後、このふたつの「私」が重なり(統一され)、「私」を忘れる(我を忘れる)瞬間に出会うことができる(「目を閉じて 僕はいなくなるんだ ただ風の音を聞くだけの行為になるんだ」)。そういう瞬間を増やせば増やすほど、人生は感慨深いものになるのではないでしょうか(?)。(インドに行ってみたい、いつか必ず……。)