エゴイズムについて

自分が何かを求め、手に入れようとすることのせいで、他の誰かが不快に思ったり、傷ついたり、争いが起こったりするかもしれないというとき、それを求めることを徹底的にやめてしまおうと思うことがある。自分のエゴイズムをなきものにしてやろうと思うことがある。しかもそれを誰に打ち明けることもなく、自分の中だけで消化させてしまうのだ。不快に思う(傷つく)人が、実は僕が心のうちでは軽蔑しているような人間で、別にその人と僕との関係なんてどうなってもいいと思っていたとしても、である。それはある種のプライドなのかもしれないし、すでにまあまあ恵まれているから誰かを犠牲にしてまで欲しいものを手に入れる資格なんて僕にはない、と考えているからなのかもしれない。自分のエゴイズムに自覚的である以上、それを押し通すことは果たして正しいことなのだろうか?とあれこれ考えているうちに、もうどうでもよくなってきて、すべて他の人が望むような形になってしまえと思うのだ。後になって「あいつは利己的なやつだ」と後ろ指をさされたくないからなのかもしれない。「僕はまったく利己的ではない」ということを他人に証明してやろう、それによって僕の評価を高めてやろうという、あくまで利己的な動機に基づいているのかもしれない。とにかく僕は一人きりでもやっていくから、争いごとや馴れ合いはきみたちで勝手にやっててくれ、と思うことだってある。

もちろん自分の中でふたつのことを天秤にかけて、人を傷つけることになったとしても僕はそれを求めます、ということはたくさんあるだろう。そういうとき、僕は自分の内面の葛藤(天秤のこと)を少しも外に出すことなく、無慈悲な態度でそれを手にするだろう。(「僕だってたくさん悩んだのだ」という言い訳を聞きたい人間はどこにもいないからだ。)手に入れたあとはひたすら黙っていなければならないのだ、少なくとも、公(おおやけ)には。それは僕が犠牲にしたものに対する、ひとつの礼儀である。