感じることの拡張

仮に僕がジャズを聴くことに憧れていたとする。(じっさいはそこまで憧れてはいないよ。)しかし当然いきなりジャズを聴いたとしても最初からその良さが分かることはないし、なんなら一生分からないんじゃないかという気さえしてくる。それでもジャズを聴くことに対する憧れを拭えないとしたら、僕はぐっとこらえてジャズを聴き続け、それによって感性を訓練させ、「感じることの拡張」をはからねばならない。

(心と形式をもちいて考えるならば、)こういうとき、まず形式から入らなければならないということになる。そしてあとから心が追いついてくる、つまり、じっさいに「ジャズを聴いて心地よい」と感じることができるようになるのを待たなければならないのだ。

しかしこのとき、一つだけ大切なルールがある。それは、形式から入ってまだ心が追いついていない間は、決してジャズを聴いていることを他人に言っては(見せびらかしては)ならない、ということである。あるいは言うとしても「ジャズを楽しめる人間になりたいから聴いているのだ」という言い方をしなければならない。(自分の気持ちに嘘をついてはいけないということである。)これを守らないとき、すぐさま「感じることの拡張」はストップする。それ以上の成長を望むことはできなくなる。「感じることの拡張」は、孤独の中でなされるものなのだ。

本、音楽、お酒、スポーツ、旅行…などなど(他にもたくさん)に触れることにより心を動かすこと(感じること)ができる人間であればあるほど、その人の人生は豊かになる(快楽主義?)。「感じることの拡張」は、人生を豊かにするために必要なことである。僕も精進しようと思います。(「考えること」もだいたい似たようなものだと僕は思っている。)

勉強と労働は人が生きていくために(お金を稼ぐために)必要ではあるが、人を感じなくさせ、考えなくさせ、生きていくことそのものの意味をも失わせてしまうから、注意が必要である。バランスを模索しなければならない。(勉強や労働から「感じること・考えること」を引き出すことができるならそれは素晴らしいことであるが、現状それができるほど恵まれた環境にいる人は少ない。「お金を稼ぐこと(ビジネス)」と「感じること・考えること」とは、基本的に相容れないのだ。利潤を追求すればするほど、人間は考えも感じもしないロボットになってしまうほうがいいのである。)