正直さ・自由に感じ考えること

僕がふだん考えている「正直さ」とは一体どんな「正直さ」のことを言うのだろう? 単に「事実と違うことを言わない」というんではないのだ。僕も事実と違うことを言うことがある。

僕の言う「正直さ」には際限がない。本当か嘘かの二択ではなく「程度」の問題なのである。白か黒かではなく、グラデーション。正直であろうと努力すればするほど、それだけ正直になることができる、といったものなのである。

自分の中にあるもの(自分が何を感じ、何を考えているのか)をできるだけ詳しく把握し、もっとも適した言葉に置き換えること。それを僕は努力しているのだ。言葉を用いる時点で百パーセント正直であることは不可能である。でもしっかりと、自分の中にある汚い部分にも目を背けずに考えれば(何パーセントかは分からないけど)かなりの正直さを保つことができる。

一番怖いのは、勝手に口が喋っていることである。考えもしないのに、その場に適した言葉を勝手に口にして、しかもそれがまさに自分の感じること、考えることであると錯覚してしまうことである。

(官僚の人たちを一概に悪く言うつもりはないけど、)僕がいま想像するのは「官僚的やりとり」である。心より先に形式があって、形式が心を踏み潰すのだ。人を感じなくさせ、考えなくさせる。イメージや体裁がすべてになる。他人からどう見られているかがすべてになる。

しかもその他人というのは、具体的に自分が大切に思っている人たちのことではない。もっと漠然とした不特定多数である。それは社会的なものであって、もはや人でさえないのだ。

黙っているとき、人はもっとも自由にものを感じ、考えることができる。それを誰に表明するわけでもないで感じること、考えることが、もっとも自分にとって「本当らしい」ものなのだ。自由とは心の中に築くもの、内側から湧き出るものである。