私は「Aであり、かつ、ノットAでもある」みたいなことを平気で書く人を絶対に信用しない。絶対に! それをオッケーとして、ベラベラ喋っているような人には、真実に対する真面目さがないし、要するにとことん不誠実である(東洋的とか神秘主義とかうんぬんの問題ではない)。そういう人の書く文章には、理解するに値する何ものも含まれていない。矛盾したことを書いて、それには深い意図があるように見せ、自分の「考え」の体系を複雑にする。迷い込んだ人はその複雑さの中で右往左往するが、しかし、その迷宮には、そもそも理解可能な「考え」というものがどこにもないのだ。なぜなら、そういう人は自分の思想を伝えるのが目的ではなく、できるだけ他人を自分に繋ぎとめておき、思い通りにするのが目的なのだから。私は思うのだが、たぶん、カルトの教義はそういう手法で作られるのだと思う。

 ——ああ! だけど、一体何が、どんな経験が、私にこんな文章を書かせるのか? 自分の身に(心に)起こったことを消化して、それを言語化できるまでには長い時間が必要だった。これは私の主観的な体験の一記述でしかない。個人的な強い感情というものは必ず人間を盲目にする。客観的に過去をふり返ることを不可能にする。だから自分の考えることも一向に信用できない。たとえば、早い話、私はその当時、病人だったのかもしれない。それがすべての元凶だったのかもしれない。何もないところに勝手に妄想を見て、勝手にそれに苦しんだのかもしれない。

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