求めること・遠慮すること

 夏休みが終わり大学の授業が再開した。教室では相変わらず身の置き所がいまいち定まらないままだけど、朝ちゃんと起きて一限目の授業にしっかり間に合って真面目に板書もして……大変よくできました。
 授業が再開したことは非常に残念な出来事ですが、だからといって気分が落ち込んでいるというわけではなく、むしろここにきてようやく「なにかができそう…!」という前向きな気持ちがふつふつと沸いてきている(これとか)。小さな火ですが、消えてしまわないように頑張っていきたいです。



 求めること、それも適切な相手に適切なやり方で。そうすればそれに応えてくれる人がいるのである。素晴らしいことだと思います。これが「なにかができそう…!」という気持ち、期待感(=元気)。
 この「適切な相手に適切なやり方で求める」ができさえすれば、人生華やかだろうと僕は思うのです。

 しかし問題は「適切な」というのが恐ろしく難しいということにある。「適切な」が分からず、間違った相手または間違ったやり方で求めてそれが拒否されると傷つく。場合によっては他人が怖くなって家にこもりがちになったりもする。(そしてたいていの場合、外から働きかけがない限りそのままずっと沈み続けることになる。)



 求めても拒否されるかもしれないという恐怖感があると人は遠慮する。遠慮することが体に染みついてしまうと、求めるべきときに求めることができなくなる。すると相手は求められていないと感じるため、相手も遠慮する。
 遠慮と遠慮がぶつかると悲惨だ。起こるべきことも起こらなくなってしまう。(恋愛の話をしているのではなく、すべての人間関係に共通していること。)

 だから(人生華やかにしたければ)遠慮し続けることはできない。ちゃんと求めなければいけない。しかし、適切な相手に適切なやり方で。
 これは、間違った相手または間違ったやり方で求めて、拒否され、傷つき、求めることに恐怖したのち、それでもその恐怖感を乗り越えて再び誰かに求めることを始める……そのくり返しによってのみ学ぶことができるのだろう。
 それは辛い道のりだから、華やかな人生を諦めてしまいたくなる気持ちも痛いほど分かる。家にこもり連絡を絶ち求めることをやめれば、誰にも干渉されず自分が傷つくことも相手を傷つけることもない、一人きりの安全な生活を送ることができる。
 しかし求めることを諦めたあとで待ち受けているのは、辛く孤独な人生である。ほとんどの人はそれに耐えることができないはずだ。



 求めることを諦めないこと、わりと大事だと思います。(と同時に、間違った相手または間違ったやり方で求める人に対してもできるだけ寛容でありたいものです。)

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