憧れ・嫌悪

『僕が白人だったら』という曲は、その題名や歌詞から「白人」に対する憧れが描かれているのだが、終盤の「毎週末には教会へ行くすべて クリーニングしてくるクリーニング」という部分は大きな皮肉で、それは『バグダッドのボディーカウント』のサビ「God Bless America」の皮肉と同じものがある。



白人ではない人たちに白人に対する憧れを抱かせたものは、白人が大きな力を持って作りあげてきた社会の価値判断(好き嫌い)である。白人ではない人たちも、白人が作り上げた白人優先の価値判断に少なからず影響を受けてしまうのだ。それに気づいたとき、白人ではない人たちは、白人に対する「憧れ」と同時に「嫌悪」も持たなければいけなくなる。矛盾した感情を持たなければいけなくなる。

これは白人うんぬんに限らない。自分ではないものに対する「憧れ」は、それをコントロールして自分を肯定するために正当な理由を探しだしてくるものだが、多くの場合その「正当な理由」は「他人あるいは社会に対する批判・嫌悪」という形をとる。学校に対する批判、会社に対する批判うんぬん。

人はときどき、自分にとって唯一存在である「自分」を肯定するためならどんな歪んだ考え方だって受け入れるし、どんな過激なことだってやるものだ。それが「自分以外のすべてを否定することで、ただ自分ひとりを肯定する」というやり方であっても。そうでなかったらマーク・チャップマンはジョン・レノンを殺す必要なんてないし、かつてのドイツ人がヒトラーに従ってユダヤ人を迫害することもなかっただろう。どんなときもまず「個人的な感情」がある。そしてその後に理屈がついてくるのだ。「個人的な感情」以外のなにものも、最初にその人を動かすことはしない。



「個人的な感情」に根差した批判・嫌悪はすべて排除しなければいけないなんてことは当然ない。

しかし僕たちは、必ずその「個人的な感情」にどこまでも自覚的でなければいけない。そしてその矛盾した感情のなかで賢くバランスをとる必要があるのだ。たえず自問自答することができる者でなければ、なにも言うことはできない。自問自答はときどき本当に辛いものがあるんだけれど。(『万延元年のフットボール』の鷹にはその自問自答が足りない。あるいは、しらふで(正気で)自問自答することができないくらい深い傷を負っているのだ、とも言える。対して密はその自問自答に精神を疲弊させて、なにも「期待」することができないままでいる。)



こういうことが前提にあるから、最近の僕はなにかを考えはじめても、いつも最後には「なにもわからない」という気持ちになるのだ。どこまで「個人的な感情」を許していいものか? 「正しさ」はどこからやってくるのか?