ふたつの本当

言葉はうそをつくので、ある感情をもみ消してあるべき感情をでっちあげたりする。それがずっと嫌で嫌で仕方がなかったのだが、最近は感情とはそのように積み重なっていくものなのだと納得している。「ある」だけが本当なのではなく「あるべき」もおなじように本当であると思いたい、といった具合に。言葉はうそをつくが、うそをつくにいたるのにもやはり理由があって、それは本当なのである。僕たちは言葉を通して、本当がそこにあることを、それがなにかはわからなくとも、理解するのだ。神話はウソであると言う人がいるが、なにもないまっさらなところから、物語ができたとは考えられない。そこに物語があるということは、そこになにかが、それはわからなくとも、あるということだ。皮膚を境界面にして、その内側にある本当のなにか。外側に本当があることは、科学やその他の学問がうそをつくことによって、理解できる。皮膚を境にふたつは分けられるが、どちらも大きさはおなじに違いない。ふたつの本当の重さは等しいに違いない。皮膚をひっくり返したら、内側にある宇宙は無限遠まであふれ出て、外側にある宇宙はきれいに皮膚に閉じ込められるだろう。そして好奇心だけが、ふたつの世界を旅することができるのだ。