広告と教養

(ビジネス界隈におられる方々のような)極端なこと、過激なこと、賢そうなことを喋ったりやったりして注目を集める輩が僕は好きではない。彼らの言ってることの理屈がおかしいとか言うつもりはない。役に立つ部分もひょっとしたらあるのかもしれない。しかし彼らがしていることはすべて単なる「広告」である。不必要に力強い言葉やスローガンも、宇宙にロケットを飛ばすことも、SNSでの発信も、交友関係も、彼ら自身に関することのなにもかもが単なる広告にすぎない。そこに中身はない。多くの人はその広告に煽られ、踊らされ、お金を支払う。あるいは自らがくだらない「広告」になり下がって、お金を人から巻き上げる。そこで行われていることは「広告があって、お金が動く」、ただそれだけのことである。そしてその間に、本当に大切なものが次々と失われていくのだ。

では、広告ではない「中身」とはなんなのか。その答えは簡単ではない。それがわかれば誰も苦労しないだろう。「教養です」と言うことができるかもしれないが、教養ですらもときどきくだらない「広告」として扱われることがある。つまり「教養が大切だよね」とか言って、たくさんの本を読みました、あれもこれも知ってます、とかでは全然ダメなのだ。これは(必ずしも「お金を稼ぐため」ではないにせよ)やはり単なる「広告」にすぎない。

本当の意味での「教養」とはなんだろうか。僕は「考えること」と「感じること」であると思う。しかし「考えた(あるいは感じた)という事実」であってはいけない。実際に「考える(感じる)こと」それ自体でなくてはいけない。かなり抽象的な答えかもしれないが、「教養」とは、それ以上具体的に述べることができない類のものだと思う。

そして、考えたり感じたりするためには「体験」が不可欠である。およそ考えられるあらゆる体験(人付き合いをするとか、本を読むとか、旅行するとか、その他なんでも)が考える(感じる)ことの役に立つ。もし体験が尽きれば、それ以上考えたり感じたりすることもできなくなってしまうだろう。新しいことを考える(感じる)ためには、新しい体験が必要なのである。

「体験すること」と「考える(感じる)こと」の相互作用によって、人間は「良い」方向に向かっていくことができるのだと思う。たぶんそういった営みが「幸福(快楽?)を追求すること」に繋がっているのではないかと僕は考えている(ちょっと飛躍した)。