抽象的なもの・ことへ

僕がなにを「専門」としているのかというのはすごく難しくて、ほとんどなにも「専門」にはしていないと言っていい。ここでの「専門」というのは学問的な意味あいではなく、「好きなこと、頑張っていること」くらいの意味、より正確に書けば「それを好きである、頑張っていると公言できること」くらいの意味である。アイデンティティ的なものに関わってくる類いの「好き」や「頑張っている」である。

中高の頃は、僕にも「専門」らしきものがちゃんとあった。自分を知らない人に手っ取り早く自己紹介するためには「走ることが好きです。陸上競技を頑張っています」とか言えばよかった。たぶん僕のことを知っている人も、そのほとんどが僕を「陸上競技」とともに記憶していたのではないかと思う。それくらい本気で陸上競技に打ち込んでいたのである。

でも、今は違う。自信を持って自分について語るべきことはほとんどなにもない。走るのが得意(だった)、ギターも少し弾ける、音楽を聴く、本も読む、物理学類である、でも最近は文系分野のほうが興味がある。しかしどれもすべて中途半端で、どれにも打ち込むつもりが僕にはない。僕にふさわしいキーワード(中高の僕にとっての「陸上競技」)みたいなものはなにもない。だから好きなことや頑張っていることはなんですか?と聞かれても答えに窮する。強いて言うなら考えることが好きだし頑張ってもいるが、いわゆる哲学をやっているわけでは全然ない。つまり、一見すると僕はなにも好きではないしなにも頑張ってはいないのである。一見すると。

しかし、好きなことや頑張っていることはある。間違いなくある。それを簡単に言葉にするのは難しいというだけ、具体的な単語で示すことはできないというだけで、なにかしら好きだしなにかしら頑張っている。そしてそれがしっかりと僕を僕たらしめている(アイデンティティ的なものとして機能している)と強く信じている。(強く信じられないときは、どうしようもなく不安になったり混乱したりしてしまうわけだが。)では、僕は一体なにが好きでなにを頑張っているのだろうか?

具体的な単語で示すことができないのは、具体的なものを好きなわけでも具体的なことを頑張っているわけでもないからだろう。つまり僕が好きなもの・頑張っていることは、抽象的なもの・ことなのではないか。音楽を聴いたり本を読んだりその他もろもろのことを、僕は誇ることなんてできない程度にしか好きではないし頑張ってもいないが、しかしその過程でなんらかの抽象的な「なにか」に向かっているという意識が僕にはある。だってそうでなかったら自分がばらばらになってしまうだろう。自分の価値観とか好き嫌いといったものが!

そして僕は、それが抽象的であればあるほど正しいと(ひそかに)信じている。僕を僕たらしめてくれるものは具体的なものであるべきではないはずだと。さらに言えば、人間を人間たらしめているものは具体的なものであるべきではないはずだと。それが「本当のこと」とかいうやつなんだとすれば、その「本当のこと」とやらを探し求めることが、おそらく僕がこのブログでやりたいことなのである。(本当のことをいおうか!)具体的な単語ではなく、抽象的な文章(専門用語では、「遠心的な文章」)。

このブログが、僕自身の真実を見つけるためにやっている個人的な探求の場であると同時に、(僕が僕の中に深く降りていくことで逆説的に)僕以外の人間にも通ずる普遍的なもの(ヒューマニズム?)に近づくことのできる場でもあればいいなと思う。だから僕の考えることが、他の誰かが考えるさいの助けになれればとてもうれしい。