本・「良い」もの・知的好奇心

カミュの『異邦人』、かなり薄くてささっと読めそうやんと思って読み始めるのに、まいど挫折している。もう四回くらい途中で読むのをやめている。(うち一回は第一部の終わりまで読んだのにね。)なんか主人公がゆらゆらしている。頭の中であれこれ考えてはいるんだけど、魂がまるでないような感じ。印象には残っていて、ちゃんと読みたいなあと思っているんだけどいざ読むとあんまり進まない。

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僕は、基本的に「良い本」を読もうと心がけている。「好き」より「良い」である。理由の一つ目、自分がどんな本が好きなのかすら僕には分からない。二つ目、「良い」ものに触れなくてはいけない!という僕の強い思想。(思想ありました。これは本に限らない。)

特に僕はまだ二十歳であるから、僕はこれこれが好きだ!と決めてしまって読書の範囲を狭めてしまうのはあまりよろしくないことだろうと考えたのだ。だから、幅広く「良い」ものに触れていこうぜ、という方針で本を選んでいる。なじみのあるものよりも知らないもの、自分にとって新しいものに触れていきたい。かつ「良い」ものである。したがって「良い本」を幅広く、である。

「良い本」を読もうの信条の一つとして「ある作家の本を読もうと思ったら、一冊目はできるだけその作家の代表作を読む」というものがある。今、大江健三郎の小説を初めて読んでいる。あれこれ迷った末に結局『万延元年のフットボール』を読んでいる。僕がいま興味を持っているテーマに従って、『万延元年のフットボール』ではない、他の作品を読もうかとも考えたが、そんなことより最も優れているとされている本を(それがどんなテーマであれ)読んでみるべきだと思ったのだ。自分の好き嫌いよりも、社会的評価を優先する。普段の僕の考え方と矛盾しているように思われるかもしれないが。

とはいえ、読むことが楽しくないとそもそも読書ははかどらないから、楽しい!と思った本を見つけたらその周辺にあるような他の本を探したりも当然している。例えば村上春樹の小説を読んで面白かったら、村上春樹が翻訳している小説を読んだり村上春樹と同時代のアメリカ文学を読んだり、といった具合。

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「『良い』ものに触れたい」というのは「精神的に立派になりたい」という「意識の高さ」からくるのか?というと、そういう部分もあるにはあるが、主な理由はそれではない。

一番の理由は知的好奇心を満たすことである。世界を超えて時代を超えて「良い」とされているものには、それ相応の「秘密」があるように僕は思うのだ。限られた人たちだけが理解している・知っているような、空間と時間を超えて成立する「秘密」。それは「良い」ものに触れた瞬間すぐに理解できるようなものではないだろう。

しかし、例えば数日後や数ヶ月後あるいは数年後に、ふとすべてがつながるような、「秘密」を(言葉ではなく)心の底で理解することができるような、知的好奇心が満たされる幸せな一瞬が訪れる。ふと、理解する。そして宇宙的・時間的な広がりについて思いをはせる。そういう瞬間のための伏線として、「良い」ものに触れておくことは大きな役割を果たすのだと僕は思っている。

インドに行きたい!とずーっと思っているのも、まったく同じ理由によるものなのだ!(勇気と行動力を僕に! たくさん旅行することを口実に部活辞めたのに、ほとんどどこにも行ってないのだよね。)