小学生の頃のことは、かなり鮮明に覚えている。当時の自分がいまの自分とおなじ人間であるとは、とうてい思えないのだけど。住んでいる世界もまったく違っていたような気がする。
 大人たちが整えてくれた箱庭(のようなもの)の中で子供はすくすくと育っていく、というイメージが僕にはあり、自分の幼少期もそういったものとして回想することができる。箱庭の外に何があるのかなんて当時はまったく知らなかったし、自分が箱庭の中にいるのだということすら、まったく分かっていなかった……


 泣くんだ 赤ちゃん 泣くんだよ
 おかあさんを嘆かせてやるんだ
 扱い方は十分心得ているから大丈夫さ

 マリーゴールドの王様は台所で
 女王様の朝食の仕度をしている
 女王様は居間で
 王様の子供たちのためにピアノを弾いている

 泣くんだ 赤ちゃん 泣くんだよ
 おかあさんを困らせてやるんだ
 扱い方は十分心得ているから大丈夫さ
 だから泣くんだ 赤ちゃん 泣くんだよ

 ……………………

 元いたところに私を戻してくれる?
 お願いだから
 元いたところに私を戻してほしいの
 ブラザー 私を戻して
——ビートルズ「クライ・ベイビー・クライ


 そして唇でジェイムズの髪に優しく触れながら、この子も今ほど幸福に感じることは二度とあるまい、と思いかけたが、そういう言い方に以前夫が腹を立てたことを想い出して急いで止めた。それでも真実は真実だ。これから先、子どもたちが今以上に幸福になることは、やはりないだろう。今のキャムなら十ペンスのお茶セットがあるだけで、何日でも幸せでいられるのに。朝起きるとすぐ、子どもたちが頭上の床を踏み鳴らし、歓声をあげるのが聞こえてくる。そして廊下を勢いよく走る音がしたと思うと、急にドアが開いて、バラのように瑞々しく、もうすっかり目を覚ました子どもたちが、一斉になだれ込む。まるで、朝食後の食堂に入るという、毎日繰り返している何でもないことが、子どもたちにとっては一大イベントででもあるかのように。(…)それで階下に戻った折りについ夫に向かって、なぜあの子たちは大きくなってすべてをなくす必要があるのかしら、今が一番幸せなのに、などと言ってしまう。すると夫は怒りだし、なぜそんな暗い見方しかしないのか、もっと分別を持たなきゃ、と言う。
——ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」


 いいですか、これからの人生にとっては、何かの美しい思い出、なかでも子供のころ、両親の家で過しているころに胸に刻まれた思い出こそが、何よりも尊い、力強い、健康な、有益なものになるのです、それ以上のものはありません。きみたちは教育についていろいろ聞かされるでしょう、けれど、子供のころから持ちつづけられる、何かすばらしく美しい、神聖な思い出、それこそが、おそらく、何よりもすばらしい教育なのです。もしそのような思い出をたくさん身につけて人生に踏み出せるなら、その人は一生を通じて救われるでしょう。そして、そういう美しい思い出がぼくたちの心にはたった一つしか残らなくなるとしても、それでもいつかはそれがぼくたちの救いに役立つのです。
——ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

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