悲しみを物語ること

 僕たちは、自分の心の中がどうなっているのかについて、できるだけ公平でなくてはならない。もし仮に、あなたが世界中を敵に回すと心に決めたとして、この世界がいかに愛するに値しないかについて頭を使うのであれば、それと同時に、あなたはあなた自身についても深く考えてみる必要があるのである。なぜなら、僕たちはどんなときでも、「自分」ということを度外視してものを考えたり、意見を主張したりすることはできないからである。実際そこには自分の利害が絡んでいるだろうし、あるいは、考えたくもないような劣等感だとか、自尊心の問題が含まれていたりもするだろう(「考えない方がいい」と言ってしまいたくなるほど、それは恐ろしい領域である)。もしくは育った環境だとか、出会った人だとか、そういった具体的な体験が影響していることもある。このように、僕たちが日々考えたり感じたりすることには、必ずそれなりの動機があるのである。

 しかし、心の中のそれらをすべて考え、吟味することは、途方もなく苦しい作業である。たぶん自分一人ではできないことだろう。そういった諸々の考えや可能性について、辛抱強く耳を傾けてくれる他者を必要とする。憎しみや悲しみと、それが起こった原因についての一連の物語を、丁寧に聴いてくれる存在を必要とする。「どんな悲しみも、それを物語にするか、それについての物語を語れば、耐えられるようになる」(イサク・ディネセンという人の言葉。『活動的生』からの引用)とあるように。そしてあなた自身も、誰か他の人にとってのそういった存在でなくてはならないし、そうした営みをこそ大事にしなくてはならない。そうしてはじめて、人間は「人びとのあいだにとどまること」ができるのだから。また、それこそが、精神的な意味において「生きている」ということの本質なのであり、自分の心の中について公平でなくてはならないことの理由である。

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