好き嫌いの画一化

 ただ単に「注目を集める」ことが重視される世の中になっている(ずいぶん前からだが、さらに)。それも当然で、お金を稼ぐことが第一である資本主義社会では、コマーシャルが命だからだ。注目を集め、人々がそれをもてはやすようになれば、スポンサーがつきお金が入る。
 最初は、お金を使う人たち、つまり金持ちの男たちが中心となってもてはやすものにスポンサーがついた。ロケットを打ち上げたり、金メダルをとったり、かわいい女の子だったり。しかし、それらが広告としてたくさんテレビなど(以後、めんどくさいのので単にテレビに関してだけを書く)に映り、たくさんのお金が動くようになってきてから、今度は逆に、テレビに映るものを人々がもてはやすようになっていったようだ。しかも一部の金持ちだけではなく、大衆がそれをもてはやすようになる。つまり、もともとは一部の人たちの好き嫌いであったものが、大衆の好き嫌いになっていったということである。さらに言えば、好き嫌いが画一化されていったということだ。
 僕たちは、生まれたときから当然のようにテレビがある環境の中で生活をしている。物心ついたときから、テレビでたくさんのことを学ぶ。人が宇宙にいるのって「すごい」のか、金メダルとった人って「かっこいい」らしい、こういう顔の女の子が「かわいい」なのか、みたいな価値判断や好き嫌いの多くを、テレビから学ぶ、あるいはテレビを見るのが当たり前になっている人々から学ぶ。こうして、社会の好き嫌いが一人ひとりの好き嫌いを侵食して最後、社会の好き嫌いだけが人々の心の中に残るような世の中になっていくのだ。
 そうじゃなかったら、人が死んでまで宇宙開発なんかしないし、ドーピングしてまで金メダルはとらない、整形してまでかわいくなろうとしないだろう。彼/彼女たち自身が、テレビに映る社会の好き嫌いを、理想的なものとして自分の中にインプットし、それを目指すことを余儀なくされている。しかしその最初の最初は、単に一部の金持ちがもてはやすとしてコマーシャルに使われた、一部の人たちの好き嫌いなのである。
 アフリカのどっかの国では太っている男性の方がイケメンとされている、という話は興味深い。太った男性は富の象徴であり、貧しい国の人々にとっての理想となっているからだ。なるほど、人は本来的に必ずしも痩せている人の方が美しい、かっこいいと思うわけではない疑いが出てくる。やはり、社会的な好き嫌いが、一人ひとりの好き嫌いに入り込んでいるのだ。そしてこのアフリカの国でも、いずれテレビが置かれるようになれば、人々は痩せた人の方が理想的だと思うようになり、それを新たな社会的な好き嫌いとして導入するだろう。こうして、さらなる画一化が行われる。
 好き嫌いが画一化されるとなにが起こるか。もともとは、一人ひとりに異なった好き嫌いがあり、人が人に向ける「好き」の矢印は分散していた。しかし、テレビが好き嫌いの画一化を推し進めるにつれて、矢印は一部の社会的理想に適った人たちに集中することになる。集中すれば当然、そうでない人に「好き」の矢印は向けられなくなる。そしてたくさんの矢印を集める人もまた、実は彼/彼女自身に矢印が向けられているわけではなく、社会的理想像の代用品として矢印を向けられているのであり、そのギャップとで苦しむことになる。そうこうしてるうちに、たくさんのお金が動く。このお金のために、すべては犠牲にされるのだ。
 最近では、二次元のキャラクターに矢印が集まることも多い。これも全く同様で、二次元のキャラクターに矢印が集まりお金が動くことで、二次元のキャラクターが多く大衆の目にさらされるようになり、それらがさらなる矢印を集め、社会的な好き嫌いになっていくのだ。
 こういった好き嫌いの画一化の現象は、どうすれば止めることができるのだろうか…。人の好き嫌いは、今書いたような現象を指摘したところで、動かしがたいものとしてある。僕がやることとしては、僕自身の好き嫌いについて深く見つめ直すことくらい…。

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