『ゲッティング・ベター』

 「前よりだんだん良くなってくる」ということを心の支えにしなければいけない。そのためには、「たしかに良いもの」や「正しさ」があるということを信じなくてはいけない。「この世には良いも悪いもない」なんて思っちゃいけない。ただ、正しく「たしかに良いもの」を見極めるのは、ものすごく難しいというだけの話だ。
 「この世には良いも悪いもない」なんて、それこそ本当に良くない考えだ。かつての僕はそれを信じていたけど。信じないということを信じていた。なにも信じないということを、本気で信じていた。その世界観(?)では、誰も正しくないという点で誰も偉くないから、割に平和だと思っていたんだな。
 でも、全然そうではないらしい。「たしかに良いもの」に向かっているということを信じなければいけないらしい。そうでなかったら、本当によく分からなくなるのだ。自分がここにいることだとか、なにをしてきてなにをするべきかとか、もうほんとに右も左も、上も下も分からなくなる。頭が混乱してしまう。
 本当はどうなのか、ということは置いておきたい。難しい部分だけど、本当なんてものが仮にないのであれば、本当があることにしたってなんの問題もない。だから、本当に「たしかに良いもの」「正しさ」があるのか? ということは置いておきたい。その代わり、こう考えたい。本当のところは知らんが、「たしかに良いもの」があると信じた方がうまくいく。つまり、「信じた方がうまくいく」という理由によって、「たしかに良いもの」はある。ここが納得できない人がいたら、かなりじっくり考えてみてほしいところ。「この世には良いも悪いもない」としたときに、自分の生活は果たして「良く」なるのか、ということを。
 そして「たしかに良いもの」や「正しさ」があると信じたとする。しかし重要なのは、「たしかに良いもの」を手にしているということでは決してない。「たしかに良いもの」に向かっているという確信である。誰が「たしかに良いもの」や「正しさ」を持っているかなんて、どうでもいいのだ。たぶんそれを手にしているのは神さまだけだ。われわれ人間は、それに向かっているという確信だけがあれば、他はなにもいらない。
 ここで例えば僕が、僕自身のこれまでの二十年を振り返ったときに、「たしかに良いもの」に向かっていると言えるのかどうかを考えたい。これを判断するのはものすごく難しい。なぜなら、なにをもってして「たしかに良いもの」に向かっているとすればいいのか、「たしかに良いもの」を手にしていない僕には、正確な判断ができないからだ。
 昔はこんなにあれこれ考えたりしなくてよかった、悩まなくてもよかった。小学生のときはイケイケゴーゴーだったし、中学は少しダウンしたけど、高校の最後のほうは結構楽しかった。そして、その楽しさを当たり前だと思っていた。それらの時期と比べたときに、今のおれが一番悩んでいる、苦しんでいるのは間違いない。この点で、「たしかに良いもの」に向かってるのかどうかは怪しい。
 しかし、分かることは増えている。これは間違いない。どんなに気が滅入ったり辛いときでも、分かることがある。それらを経験したことで、自分に中にある新しい葛藤だったり新しい感情に触れることができる。そうして、自分の中にある内的世界は広がる。事実、今の複雑だが面白い脳みそを捨ててまで、昔の自分、楽しいけれど無知で無頓着な自分に戻りたいとは思わない。この脳みそに愛着がわいてきたし、それに自分の憧れにはそっている。
 どんなときでも分かることがある。だから、分かることはだんだんと増えていく。この点で、間違いなく「たしかに良いもの」に向かっていると判断してもいいんじゃないかなあ。これを読んでいる人は納得してくれるだろうか。
 最近ビートルズの歌詞をちゃんと見ながら聴くようにしてるんだけど、新しい発見が多い。そしてビートルズの『ゲッティング・ベター』を、以上に述べた考えのテーマソングとして起用したい。

すべて だんだん良くなってくる
昔は学校でよく頭にきたものさ
教師たちはちっともクールじゃなかった
僕を抑えつけ さんざんアゴでこき使い
くだらない規則でがんじがらめ
でも 認めるよ だんだん良くなってくる
少しずつだけどね
良くなってきてることは認めるよ
きみが僕のものになってからはね
昔の僕は怒れる若者だった
よく逃げ隠れしていたものだった
そこに きみが言葉をかけてくれて
僕にはやっと目が醒めた
今の僕は何事にも一生けんめいさ
だんだん良くなってきたことを認めるよ

 この最後の「だんだん良くなってきたことを認めるよ」の、「認めるよ」という部分がとてもいい。最初はずっと「なにをしてもなにかが良くなるなんてことはない」というこれまでの悲観的な考えに固執していたけど、「きみ」と話をするうちに、「きみ」に説得されるうちに、「良くなってくる」という「きみ」の言い分をそろそろ認めなければいけないみたいだ、といった感じか。それで「今の僕は何事にも一生けんめいさ」である。なんかいい。
 定期的に僕は自分で書いたこの文章を引っ張り出してきて、あるいはビートルズの『ゲッティング・ベター』を聴いて、悲観的になりそうな自分の考えを改めるよう努めることにする。そのときに、「だんだん良くなってくる」ということを、いやいやでも構わないから認めることができればいい。ダメなときはほんとになにもかもがダメに思えてくるんだからね…。「やれやれ、またか」くらいに思えればいい。

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