「ひとりの人間」について考える

 ここ最近は、「ひとりの人間が、どういう環境で育ち、なにに影響を受け、なにを思って、現在の考え方なり人格ができあがっているのか」についてよく考えている。誰を「ひとりの人間」として考えるかについては、自分自身をはじめ、家族、友人、会った人、有名人、歴史上の人物、物語の登場人物など様々である。
 しかし、一年から半年くらい前までの自分の興味関心は主に、「政治」や「科学」といった社会的な事柄、つまり「ひとりの人間」からは遠く離れたテーマであった。考えたとしても、せいぜい「人間」についてまでであった。そのとき読んで楽しんでいた本も、『科学哲学への招待』だったり『人間の条件』『一九八四年』などである。最初の二つは物語ではないため、登場人物はいない。歴史上の人物の名前は出てくるが、彼ら一人ひとりにスポットがあたるわけではない。『一九八四年』は物語ではあるが、キャラクターが特別に目立っている小説とは言えないだろう。社会的なテーマを扱った小説であるからだ。
 それが、去年の秋〜春休みくらいにかけて、僕は「自分」について一番よく考えるようになっていった。「自分が、どういう環境で育ち、なにに影響を受け、なにを思って、現在の考え方なり人格ができあがっているのか」について。特に「自分は、なにを思っているのか」について深く。当然ながら、「自分」も立派な「ひとりの人間」であることを考えると、「自分」についてあれこれ考えることを境に、僕の興味関心は、社会的なテーマから「ひとりの人間」というテーマに推移していったように思う。
 そして今では、「自分」についても考えつつも(また、社会的なテーマについて考えつつも)、自分以外の人物を「ひとりの人間」として設定して、あれこれ考えることが多い。それも、その人がどういう環境で育ったり、どんなことを考えているかだけではなく、その人がどんな言い回しをするか、仕草をするか、格好をしているかまでほとんどすべてが興味深い。読む本に関しても、ストーリーやキャラクターが目立っている小説を楽しむことが増えた。出てくるキャラクターの性格、格好、セリフなどが面白いと思うようになった。
 「ひとりの人間」について考えることの意義はたくさんある。立派な人の考えやふるまいは、自分自身を形作る上で非常に参考になる。また、人と接するときにもそれらについて考えるのは大切だ。自分が思うこと考えることと、相手が思うこと考えることの両方について考えなければいけない。(自分と同じように、みんな一人ひとりがなにかを思ったり考えたりしているのだから。)それに、「社会」も「ひとりの人間」がたくさん集まった状態であることを考えると、「ひとりの人間」について考えることが、「社会」について考えるためにも必要不可欠であるように思う。

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