正しいか正しくないか、を考えすぎる。単に何かをしたいから何かをする、というのがほとんどと言っていいほどない。正しいことをしなきゃ、というのがまずあってしまう。直感的に喋ったり動いたりすることができないし、これからもきっとないんだろうなと思う。
 なんでおれはそこまで正しさにこだわるのか、と疑問に思う。そもそも何に対して正しいのか。これは本当にいろいろで、いろいろなものに対して正しくありたいと思ってしまう。社会にとって正しい、他人が自分のことを見たときに正しい、どんな人が自分を見るか分からないが、どんな人が自分を見たとしても正しい。(つまり、「違くない」。)
 「こいつダサい」と思われたくないし、意図せず差別的な発言をしたり、無邪気だが理解のない発言をして人を知らないうちに傷つけたりしたくない。傷つきたくない傷つけたくない。困りたくない困らせたくない。
 自分と全然違う認識を持っている人はたくさんいて、違う認識を持っている人から見られたときに、いとも簡単に「こいつ、違う。正しくない」と思われてしまうものだ。そしておれは、あらゆる人があらゆる認識で物事を見ていて、それら全ての認識にとって正しくありたいと思ってしまう。それがもし不可能でも、できる限りその努力をしたい、と。つまり、どこに出てもどんな人と会っても狼狽えず、傷つけず困らせず、堂々としていてかつ然るべき配慮も欠けない人でありたいのだ。障害を持った人に会う機会があっても、マフィアのボスに会う機会あっても「ちゃんと」したい。
 しかもこれを、一貫性のある一つの人格でどうしてもやりたいのだ。つまり、障害を持った人に対する自分の言動をマフィアのボスに見られても恥じないし、マフィアのボスに対する自分の言動を障害を持った人に見られても恥じないでいたいのだ。あるいは例えば、一方では風俗に行く人だが、もう一方ではそれを隠しているみたいなことになりたくないのだ。身内では威張りちらしているのに、外に出たらヘコヘコしてるとか。
 どんな人が見ても正しいなんて、一体どれほどの可能性なり認識なりを考慮に入れて、それら全てをひっくるめて一つの人格を決定しなければいけないのか。ものすごく難しいことだ。もう人に会わない方がラクなんでは、という気さえする。ものすごいたくさんの方向から、あらゆる種類の視線が自分に投げられていて、それでがんじがらめになって動けない感じになりかねないのだ。
 でもそこを本当に賢く賢く、それらの視線をかいくぐるように(?)言葉のニュアンスなり微妙なふるまいをしなければいけないのだなあ、これを学ばなきゃいけないのだ。敏感に他人の認識を気にするのであれば、本当に賢くなければ生きづらい、何も動けない。そしてもしそういう賢さを持てるのであれば、それが一番いい。鈍感な人の方が生きやすいかもしれないが、その代わり人を傷つけたり「違うな」と思われたりするかもしれないわけだから。
 その上でなお、自分の欲求を満たさなければいけないのだ。どんなにハードなことをしなければいけないのか、はあ…、という感じ。

コメント