自分の欲求を正確に把握して、それを満たす努力をしなければいけないんだけど、自分の欲求を正確に把握するのが恐ろしく難しいのだ。欲求不満であることだけが確かなときに、どうすればそれが満たされるのか分からないか勘違いしてしまうことがある。
 分からないならまだマシだ。もちろん、分からないときはものすごく辛いので、本当に精神的に落ち込むことにはなる。全然大丈夫ではない。しかし、「分からない」と思えているだけマシである。
 勘違いしているときがかなり危険だ。というか、多くの人は勘違いばっかしている(と、僕は思っている)ので、多くの人は危険だ…! (僕だってどうか分からないけれど。)
 自分の欲求を正確に把握する、って相当難しい。自分の欲求を満たすために、自分の思っていることやりたいこと、した方がいいことなどをあれこれ考えるんだけど、これらを考える過程で使われる言葉が偏っている、あるいは自分の欲求を正確に把握するのに必要な言葉を知らないことがある。
 ものを考えるとき、社会的に広く言われていることに強く左右される。自分の知っている言葉でしかものを考えることはできないが、自分の知っている言葉は多く、社会(というか社会人)から学ぶ。社会がおかしければ、社会で広く使われている言葉もまた、おかしい。これらのおかしい言葉を自分の中から捨て去る、とまではいかないまでも、脳みその端っこに追いやるくらいのことをしなければいけない。
 自分の欲求を自分で満たしている立派な人(一人きりで満たしているという意味ではない。自分で考えて自分で行動して、という意味である)から、たくさんの言葉をもらわなければいけない。立派な人はものすごく賢いので、「おれの欲求を満たしてくれ!」と一方的に人にぶつかることをしない。蜘蛛の巣のようにアンテナを広げて人を待ち、双方の欲求が満たされるようなやり方で自分の欲求を満たすことを考える。
 自分自身の欲求も満たせないような人からどうのこうの言われても、全然心に響かないのだ。そういう人は、「相手の欲求を満たしてあげよう」という理由をふりかざして、自分の欲求を満たすためにあーだこーだ言うことが少なからずある。(僕もたまにそういうことがあって後で気づいて反省する。)しかも、自分で自分の厳しい状況に気づいていない。そしてそういう人はだいたい、社会の言葉を使っている。僕はこれまで、善良な社会人が欲求不満でない、問題を抱えていない例を見た試しがあまりない。なぜなら、社会は人々のためにあるとは限らないからだ。社会をまとめる一部の権力者の欲求のために社会はあるし、その社会のための社会の言葉が広く人々に行き渡る。しかも途中から、権力者だって自分の欲求が分からなくなっているんだから最悪だ。誰も助からない。みんながみんな、『うさぎ!』で言うところの灰色の手下に成り下がるのだ。灰色の欲求を満たすための灰色の言葉があふれ、社会に広く行き渡る。しかし肝心の灰色は、実はどこにも存在していない。ナチスドイツは、ヒトラーの欲求を満たすために生まれたわけではないのだ。誰の欲求も満たさないのに、誰もそのことに気づかないまま、いつのまにか「ああ」なった。
 社会とは離れたところでたくさんの言葉を学ばなければいけない。本を読むことや映画を見ることなど、とりわけ良い本や良い映画、つまり古典的なもの、時の洗礼を受けても評価されているものに多く触れることは、このためにものすごく価値がある。また、古典的なものを多く読んだ(見た)人の作るものや話す言葉にも耳を傾けたい。何も分からないうちはなんでも信じてしまうことができるが、そうではなく、良いものを信じるようにしたい。

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