「大きなもの」の言葉(あるいは規範)

人に対して怒りを覚えたり攻撃的になったりすることは、力のおよぶかぎり控えたいと思っている。それは言い換えると「誰も悪くない」ということである。(かつての母親はヒステリックになりやすい傾向にあったけど、今ならその理由がよく分かるし、僕はそのことで母親を嫌いになってはいけないのである。)

でもこれは、何にも怒りを覚えないということでは決してない。人を人でなくさせるものに対しての強い怒りが僕にはある。それは「大きなもの」に対する怒り、そして「大きなもの」のために犠牲を払えと要求する言葉(あるいは規範)に対する怒りである。「大きなもの」が、それ自体の利益のために人々にばらまいているいくつかの言葉に対する怒りである。

個人営業ではない、名のある会社の支店でバイトをしていたときの経験から気づくことだが、そこで働いている会社員はみんないい人ばかりなのに、ときどきすごくうさんくさくなるときがあった。どう考えても、彼/彼女ら自身が生きて学ぶことによって得た言葉ではない、誰かから教わったみたいな言葉をぺらぺらと使い始めるときがあった。そういうとき、僕はひそかにうんざりしていた。そして「この人のせいではないのだ。仕方のないことだ」と自分に言い聞かせながら我慢するようにしていた(単なる考え方の違い、ということはもちろんあり得るけれど)。

僕はいま人間不信ではない(かつてはそういう傾向にあったけど)から、人のことを怖いとは思わないし、人が僕に話しかけてくる言葉を疑ったりすることもない。だけどそれは「お互い」で交わされる言葉にかぎった話である。「組織される前」の僕たちが話す言葉にかぎった話である。組織すると、人は「大きなもの」の言葉を使い始める。僕はそれだけは決して受け入れない。受け入れる「ふり」はするかもしれない。でも、内側までそれらを取り込むことはしない。「内側まで無感覚にな」ることは絶対にしない。

「大きなもの」が悪い虫みたいにばらまいているいくつかの言葉を、徹底的に自分の中から追い出して、二度とふたたび取り込まないようにしなければならない。そして「自ら用意した規範に従って行動」しなければならない。それは「党や国や観念に忠誠を尽くしたりはしない」で、「お互いに忠実であろうとする」ことである。

※「大きなもの」については一度文章(「大きなもの」・人は弱くてもろい)を書いているので、こちらも参考にしてください。