『孤島』という哲学的エッセイの「ケルゲレン諸島」という章からの抜粋。(僕はこのブログで、高校では陸上をやっていてしかもそれなりに足が速かったのだ、ということを自慢したばかりであるが。)



「私は、しきりに夢想した、一人で、異邦の町に私がやってくることを、一人で、まったくの無一物で。私はみすぼらしく、むしろみじめにさえ暮らしたことだろう。何よりもまず私は秘密を守っただろう。私自身を語る、人の前で自分をあかす、私の名を出して行動する、そういうことはあきらかに私のもっている、しかもいちばん大切な何かをそとにもらしてしまうことであったようにいつも私には思われた。」

「身をもちくずしたある学校友だちが、かつて私にいったことがある、——自分はミュージック・ホールやその他の歓楽の場所に興味はない、心をひかれるのは、まがりくねった通りを歩くときで、そこでは夜がおりると、行きずりの女たちがかるくからだにふれて、低い声で話をもちかけてくる、と。こんな極端な例をひかなくても、深くかくされていないようなつよい感情というものはない、ということができる。」

「私は自分をありのままに名のることはないだろう、そればかりか、異邦の人に口をきかなくてはならないときは、むしろありのままよりも以下の人間であるかのように自分を名のるだろう。たとえば、実際にある国を私が知っているとすれば、その国を知らないふりをするだろう。私に親しい思想を人が得々と述べたてるとすれば、私はそれをはじめてきくような態度をとるだろう。私の社会的地位がなんであるかを人にきかれるとすれば、私は自分の地位をひきさげるだろうし、私が労務者の監督であるとすれば、私は労務者だというだろう。私は物知り博士をしゃべらせておき、その人にさからわらないだろう。」