見返りを求めない

神さまに(たくさんの他人に)愛されてきた人は、何の見返りを求めることなく、たくさんの人を愛することができる。この場合の「愛する」とは、いらいらしないだとか、許すだとか、軽蔑しないだとか、嫉妬しないだとか、だいたいそんな感じの意味を含む。象徴的な言葉選びをすれば「惜しまずに与える」みたいな感じである。「右の頬を」とか「汝の敵を」とかいったやつである。



①AさんがBさんに優しくしたとして、でも②BさんはAさんの優しさをあだで返したとする。そしてその結果、③AさんはBさんのことを軽蔑したとする。

① → AさんがBさんに優しくできたのは、Aさんがこれまで人から愛されてきたからである。

② → BさんがAさんの優しさをあだで返したのは、Bさんがこれまで人から愛されてこなかったからである。

③ → AさんがBさんのことを軽蔑したのは、Aさんは確かにこれまで人から愛されてはきたけれど、優しさをあだで返すBさんを許すことができるほどには愛されてこなかったからである。

③’ → もし仮にAさんがこれまでもっと人から愛されていれば、AさんはBさんのことを許すことができ、Bさんに対する優しさを保ち続けることができる。そうすればBさんはいつかAさんの優しさに感謝するようになり、Aさんの優しさをあだで返すようなまねはしなくなるだろう。そしてむしろ他の誰かに優しくすることができるようになっているだろう。



たくさん人から愛されてきた人は、これまで愛されてこなかった人のことを、見返りを求めることなく愛し続けなければならない。そして「愛されてきた人」の数を増やさなくてはならない。それはツリーのようなもので、上から下へと愛が流れているイメージである。(ツリーのいちばん上にいるのは神さまであるということにしておきましょう。)

見返りを求めることなく、できるだけたくさんの人を愛すること。どれくらいそれが実践できるかどうかは「これまで受けてきた愛の大きさ」と「人を愛するための努力」にゆだねられている。(宗教っぽいですね……。それは仕方がない。)