内側に隠れるものについての考察

 目に見えるもの、活動的なもの、外側に現れるものよりもまず、目には見えないもの、観想的なもの、内側に隠れるものの方にこそ、いっそう心を傾け、取り組まなければならない。前者は、後者があってはじめて、何かしらの意味を持ちうるからである。この二つの対比は、ヨハネ福音書における、「律法はモーセをもって与えられたが、恩恵と真理とはイエス・キリストをもってはじめてあらわれた」という箇所に、特にはっきりと言い表されている。折にふれてイエスが、自身とモーセとの違いについて述べるとき、話の中心となっているのは、つねにこの二つの違いについてなのである。

 このことは、善行と善意の関係について考えてみるとき、よりはっきりと理解できる。善行は、それ自体に意味があるのではなく、それがまさしく善意から生じるからこそ、何かしらの意味を持ちうるのだ、というのがそれである。こういった善意とは、「見られ注目されることには耐えられないのであり、それは、相手が見る場合でも、善行をなす人自身が見る場合でも、そうである」。だからこそイエスは、「あなたは施(ほどこ)しをするときに、右の手のすることを左に悟られてはならない。これは施しを隠しておくためである」と言った。「見られ注目される」ための善行は、偽善におちいってしまうのである。

 このように、また、この他の例にも当てはまることとして、とりわけ重要なのは、外側からことを始めて中身がともなわない場合、それは偽物となってしまう、という点である。そのため、愛し合う者どうしにとって重視されるべきは、彼ら/彼女らの精神的な結びつきの方であって、愛を証明してくれる何か、では決してない。あるいは、他者を愛するというとき、僕たちは、その人についての紹介文を見ているのではないし、その人が自分に与えてくれる体裁を気に入っているのでもない。その人と自分との間だけで交わされる、お互いがまさに「(何ではなく)誰であるか」という、目に見えないものにのみ、関心を寄せているのである。

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