「良い原因」であろうとする!

 僕たちはみな、これまで出会った人の多くが親切であれば、人間本性は親切なものだと信じることができるし、他者に心を開くことも、人に親切にすることもできる。一方で、これまで出会った人の多くが冷淡であれば、人間本性は冷淡なものであると信じてしまい、他者におびえるようになり、うまく心を開くことができず、また、人に親切にしてやる必要もないと感じるようになる。

 これまで出会った人のふるまいの総体が、僕たち一人ひとりの人間観を決めているのであり、それは、頭でどうこう考えて獲得するものではなく、一人ひとりの心のなかで、おのずと心理的に決められてしまうものなのだ。そのため、ある人が冷淡な人間であるからといって、その人自身にその原因(=責任)があるわけでは、まったくない。むしろその人は、心の奥深くでおびえている人、身に覚えのない不幸に苦しんでいる人である。しかもそれが誰のせいなのかといえば、僕たちみんなのせい、世界中の人びとすべてのせいなのである。すべての人びとが、まったくおなじ分だけ、その責任を負わなければならない。赦しを乞うべきはその人ではなく、僕たちの方である。

 人間はどうしようもなく連鎖しあって生きている。そのため、かつて僕がはたらいた悪事の影響は、僕自身におよぶのではなく、僕の知らない遠くの人たちの生活におよぶ。顔も知らない誰かを人間不信にさせ、誰かと誰かが仲違いしてしまうことに、僕は加担しているということである。もしこの世界がそういったもの、原因から結果への絶え間ないくり返しで成り立っているもの、であるとしたら、一人ひとりのするべきことは、できるだけ「良い原因」であろうとすることでしか、もはやありえない(できるだけでいい!)。報復主義の考え——これはまったく自然な感情でもあるのだが——ではなく、「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」。冷淡な人にこそ、親切さで報いなければならない。

 イエス・キリストは、その「良い原因」の最たるものとして、神からつかわされ、地上にやってきたとされている。このナザレのイエスが、本当に神の子であったかどうか、僕には知るよしもない。しかし、これだけは言える。イエスが語ったいくつかの言葉よりも、いっそう真実で、善良で、シンプルでもある言葉を、ほかの誰が言いえただろうか? おそらく、過去、現在、未来におけるどんな人間も、そんなことはできなかっただろう。とてもシンプルで、誰にでも理解できる言葉であるのに、誰も思いつきはしなかっただろう。なぜならイエスは、通常の人間がていねいに思考を重ねれば、当然たどり着くであろう帰結とは、まったく反対のこと——それでいて一つも間違ってはいないこと——を、述べてしまったからである。それは例えば、次のようなものである。

「あなた達のうちのだれかが羊を百匹持っていて、その一匹がいなくなったとき、その人は九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を、見つけ出すまではさがし歩くのではないだろうか。そして見つけると、喜んで肩にのせて家にかえり、友人や近所の人たちを呼びあつめてこう言うにちがいない、『一しょに喜んでください。いなくなっていたわたしの羊が見つかったから』と。わたしは言う、このように、一人の罪人が悔改めると、悔改める必要のない九十九人の正しい人[のため]以上の喜びが、天にあるのである。」(『ルカ福音書』15・4−7)

コメント