思考・言葉・行為(暴力含め)

 思考が、言葉と行為(暴力含め)を決定する。では、思考を決定するものはなにか。それは(他者から与えられた)言葉である。決して行為ではない。言葉がなければ思考はできない。(因果関係の話である。)思考は言葉を決定し、言葉は思考を決定し、思考は言葉を決定する。この思考と言葉の繰り返しによって、特定の思想が社会に広まっていく。思考を言葉にせず行為にだけしたとき、思想の普及はそこでストップする。
 どれほど賢い人でも、善い人でも、言葉がなければ思考はできない。思考は、すでに与えられた言葉を編集する作業であるから、素晴らしい言葉が与えられなければ、どんなに素晴らしい人でも、素晴らしい思考をすることは不可能である。
 暴力は、周囲を沈黙させる。暴力は権力的なものが行使することができる。権力的なものは、暴力を行使することで周囲を沈黙させる。沈黙した空間において、言葉を発することができるのは権力者だけになる。言葉が思考を決定するのであるから、その空間において、権力者の言葉だけがその空間にいる人々の思考を決定する。権力者の言葉を用いて思考した人々は言葉を発し、権力者の言葉を用いて思考した人々の言葉を用いて人々は思考する。こうして、権力者の思想は暴力を始まりとして広まっていく。言葉はますます偏っていき、思考はますます偏っていく。リベラルでない。
 行為はなにも語らない。思考を、行為だけではなく言葉にするというのは、かなり大きな意味を持つ。たしかに、言葉にするというのは簡単で、行為のように直接的な効果はないため、言葉は偽善である。偽善でない言葉など、原理的には存在しない。しかし、言葉の総体が、思考の総体である。言葉の総体が、社会の風潮を決定する。自由にしゃべりしゃべられる空間においてのみ、人々は自由にあれこれ思考することができる。(ここではっきりと断っておけば、偽善は、当人がそれを偽善だと認識していようがいまいが有害なものである。)
 偽善か沈黙か、そのバランスを考えたい。

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