耐えられない! という激しい衝動

 自分のなかにあるものを洗いざらいぶちまけてやりたい、という衝動が少なからずあるし、それは不可能である、あるいは抑えなければならないということに、耐えられないときがある。心の中にあるものをすべて外に出してしまいたい、という衝動。
 不可能であるのは、表現の問題である。自分の中にあるものをすべて、自分自身が認識できるわけではない。ところで僕の場合、認識はたいてい言葉とともにある(ときどきイメージだったり、リズムだったりするのかもしれないけれど)。そして当然、認識できないものは表現のしようがない。言葉や行為にできないものは伝わらない。
 抑えなければならないのは、人間関係の問題である。洗いざらいぶちまけたとき、それをすべて受け止めることのできるほど親密な人が、今のところおれにはいない。受け止めることのできない人に洗いざらいぶちまけたとしたら、その人を盛大に困らせるだけだし、暗黙の了解で(それから法律で?)これはやってはいけないことになっている。(もっとも、ちょっと踏み込んで反応を見てみないことには、受け止めてくれるかどうかの判断もできないのかもしれないけれど、ダメだと思ったら潔く諦めるのが理想である、という感覚を日々学んだり。)
 そうなると、エネルギーだけが体の中をぐるぐるまわってしまって、そいつのやり場に困るわけだ。わけもなく叫び出したくなるときがある。もちろん、それでなにかがすっきりすることはない。無意味な行動だ。
 寂しい、気が滅入る、耐えられないという感情、これはものすごく激しい衝動だ。というかそもそも感情というのはすべて(それが怒りだろうが喜びだろうが悲しみだろうが)激しいものだ。気が滅入っているとき、極めて元気がないことには間違いないが、それでもエネルギーがないというわけでは決してない。だから、そういうときは冷静、理性的ではいられない。
 感情という激しい衝動……これがあってよかった、と思うときも、こんなもんなくてよかったのに、と思うこともある。そういう、いい部分と悪い部分をひっくるめてそれがまさに、いいなあ! と思ったりもする。しかしやっぱり、耐えられないときは耐えられない。そういうときは、自分(理性)で自分(感情)に「まったく……おまえはほんとにめんどくさくて世話のかかるやつだな。やれやれ」とか言いながら、優しい大人が泣いている子どもをなだめるように扱ってやるのである。(村上春樹の小説に出てくる「やれやれ」というセリフは、こういう類のものではないか?) そして僕たちは、いつかぶちまけることこそが適切であるとき(解放のイメージ)が来るまでは、平然としていよう。

コメント