僕が大事にしているものについて、それを大事にしていない人に理解してもらえるように言語化することは非常に難しいし、例え、むりやり言語化できたとしても、おぼろげでつたない説明になってしまって、その説明を辛抱強く聴いて理解しようとしてくれる人は、それを大事にしていない人の中にはいないだろう。彼らは、早急さや、はっきりとした説明を求めているし、そのように説明できないものはすべて、くだらないものだと思い込んでいるんだから。
 はっきりと言えるものを大事にしている人とは、あまり分かり合える気がしない。いざ面と向かって、分かり合おう! というとき、相手ははっきりとしたものを提示してくる。それははっきりとしているから、こちらはすぐに理解するし、たいていの場合、改めて理解するまでもないものだ。これまでに嫌と言うほど聞かされてきたものであることが多いからだ。対してこちらは、なんとかぎりぎり頑張って必死に言語化する。曖昧な言葉も使う。どもりながら、う、う、う! という感じである。そもそもがはっきりと言えないものを大事にしているんだからしょうがない。それなのに、はっきりと言語化できないことによって、なんだか不利な立場に追いやられる。理解されず、疎外感を感じる。
 それでも! 分かる人には分かるのだ! と、分かってくれる人を前にすると感動する。もっとも、分かってくれる方もはっきりと言語化できず、これほどまでに自分は分かっているのだ! と伝えるための適切な言葉を見つけるのにも一苦労で、最後には、お互いが無言で頷き合うような形に収束する。はっきりと言語化できないけれど大事なものを、それぞれが心に持っており、それらはきっと同じものである、という感覚だけを共有する。(同時に、違うものかもしれない、という不安もそこにはある。)そういう人に出会えるのってまれだから、これからも機会を設けてお話をしませんか、とちゃんと言えば良かったな、と後から悔やんだりするのである。
 ぱっと見では分かりづらいけれど、話してみたらものすごく分かり合えるという人が、きっと近くにもいるはずだ。そういう隠れた人を見つける嗅覚がほしい。そしてその嗅覚が反応するのであれば、一度くらいしか会ったことのない名前も知らない人とも、試しに話をしてみたいのだ。声をかけるのには勇気がいる。分かり合えないかもしれないし、仮に分かり合えるポテンシャルがあったとしても、ゼロから関係を作るのは難しい。でも、まあ、そういうことをしない限りおれの生活は行き詰まってしまうからな……、失敗しつつも、やり方を学んでいくしかないんだな。まあ、ここまでやるべきことが分かっていれば上出来でしょう。ふむ、なんか、わくわくしてきた!

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