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  人間だけが、渇き、飢え、愛情、敵意、恐怖などのようなものを伝達できるだけでなく、自分自身をも伝達できるのである。(ハンナ・アーレント『人間の条件』)


 わたしは、お前のいうことに反対だ。だが、お前がそれを言う権利を、わたしは、命にかけて守る。(ヴォルテール)


 私が世界に存在している、とはなんであるか? ここでの「世界」というのは、少し特殊な意味合いを持たせている。それは、部屋に一人きりでいるときには現れない、二人以上の人間が集まって、互いを認識し合うときに初めて、その姿を現すところのものである。人間以外の動物はこういったものを持たない。「世界性」という語の方がニュアンスとしては正しいだろうか? (注意。僕は明らかに『人間の条件』に出てくる「世界」という語に影響を受けているが、必ずしもこの本で使われているような意味で僕がこの文章を書くとは限らない。)
 つまりざっくり言えば、僕が人前に現れるとき、僕は世界に登場するということになる。そして同時に僕は、そこにいる人をも世界に登場させるということになる。しかし実際は、ただ人と一緒の空間にいる、顔と身体が人によって見られているというだけで、僕たちが世界に存在することになるわけではない。やはりコミュニケーションがなければいけない。それは会話であったり、仕草であったり、アイコンタクトであったりする。
 いやしかし、単にコミュニケーション、つまり相手がアクションを起こし、自分がそれに反応をするというだけで、自分が世界に存在していることになるわけでもない。キャラを演じているときや言いたいことを言えないとき、自分は世界に存在しない。例えば、人に承認されたいがために面白いと言われるようなことを、やりたくなくてもやる。あるいは、嫌われたくないがために自分の意見や欲求とは異なっていても、人に同意、同調する。このとき、自分はほとんど世界に存在していないと言っていい。
 自分自身が他者によって知られること、これが世界に存在していることの条件である。つまりこれは、しゃべりたいことをしゃべり、ふるまいたいようにふるまうということ。他者が自分に期待している発言と行為ではなく、自らの欲求に忠実な発言と行為を、他者によって見られること。怒りたければ怒り、泣きたければ泣く。過去に自分がどうふるまったか、未来に自分がどうありたいかですらも関係なく、現在の自分を知られることである。こうして初めて、私が世界に存在していると言えるのだと僕は思う。
 自分が世界に存在していないとどうなるか? 簡単に言えば、耐えられなくなるだろう。寂しいとか、満たされないとか。それはつまり、世界に対して自分が疎外されている状態である。もし、一切しゃべりたいようにしゃべらず、ふるまいたいようにふるまわないとき、それは、一人で部屋にこもって誰とも口をきかない状態と大差ないのである。そして誰しもが、世界に登場できる場所を必要としている。

 しゃべりたいことをしゃべり、ふるまいたいようにふるまうこと。これは、政治的な用語では、精神的自由権がある、ということであると思う。ネットで検索して真っ先に出てきた分かりやすい説明によれば、精神的自由権とは「人間の心の中や、その心の中のものが外に出たものなど、精神的な活動についての自由のこと」であるらしい(http://minoring-office.com/data_lawpri/consti004.php から引用)。当然、心の中のものが外に出たものは、他者によって「見られる」ことが必要である。そこまで含めて精神的自由権であろう。
 精神的自由権には、思想の自由、表現の自由などが含まれている。こちらはよく耳にするかもしれない。これらは憲法で定められている。つまり、国家は国民が自由に考えたり発言したりするのを邪魔してはいけない、ということが、憲法で決められているのである。国家は、政権に批判的な人物を捕まえたり、出版物を排除したりしてはいけない。しかし、ここで注意したいのは、ここでの思想や表現の自由は、なにも政治思想や政治的な表現に限られるわけではなく、個人的な思考や感情についての自由をも意味する。つまり、政権批判からアップルパイ食べたくないまで、様々な思考や感情についての表現を自由にさせるものである。思想や表現の自由は、国家権力が暴走しないために存在するというよりもむしろ、個人の思考や感情が他者によって理解され、皆を世界に登場させるためにあるものであると僕は考えている。
 思想や表現の自由は、権力バランスを整えるためにある。つまり、国家権力が暴走し、国民が自由に考え、発言できなくならないようにするためのものである。同時にこれは、国家権力だけでなく、僕たちの身の回りにある様々な権力をも縛るものであるべきだと僕は思う。例えば、親が子供に厳しく威圧的であるとき、子供は自由に考え、発言できなくなるため、世界に存在しない。あるいは、ヘイトスピーチなどによる人種差別が行われるとき、差別を受けた人びとは自由に考え、発言できなくなるため、世界に存在しない。または、僕が誰かと会話するとき、相手を萎縮させるような態度や発言をすれば、相手は自由に考え、発言できなくなるため、世界に存在しない。思想の自由や表現の自由は、こういった相手を黙らせるような権力的な存在を排除するためのものであるべきだと思う。つまり僕たちは、自分と相手が同じだけ自由にしゃべりふるまえるように、互いの権力バランスを整える努力をして、互いを世界に存在させ合うことを考えなければいけないだろう。気持ちのよいコミュニケーションとは、こういうものではないか?

 僕たちは、他者を理解し他者によって理解される営みを大切にしなくてはいけない。寂しい、満たされないという感情は、単に人と一緒に居るだけで解消されるものではない。僕たちは、自分の思考なり感情に忠実な発言と行為を心がけると同時に、他者を萎縮させることなく他者の思考なり発言を自由にさせることをしなければならないだろう。これをしない限り、誰も世界に存在していることにはならない。思い浮かべるのは、いつか見たヒトラーによる演説に押し寄せる群衆の映像である。どれだけの人数が同じ場所に集まり、同じ思想を共有し、熱狂していようが、彼らは皆、圧倒的に孤立している。彼らは、自分自身の思考や感情、言葉と行為を失った、寂しい集団の最たるものである。そこでは、誰も世界に登場していない。

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