この世的な生と自己と欲望とに縛られている、神でもなければ聖人でもない僕たち人間にとっては、福音書におけるイエスの教えを書かれてあるとおり実践することなど、不可能である。しかしだからといって、その意義が失われてしまうということはまったくない。およそ人間が想像し得るかぎりにおいてもっとも善い意志と行ないとが、福音書には書かれてある、ただそれだけであまりに偉大なのだから(おそらくこれは、他のすべてのまっとうな聖典にも当てはまるものである)。実際のところ、それなくして、僕たちはどうやって善悪を知ることができるだろう? あるいは、殴られたら殴り返すことが「平等」であると考えてしまうような生き物が、平等に愛が分け与えられている状態というものを、どうやって理解することができるだろう? 知性や富を与えられた人間が、神ということなしに、どうやって自らの傲慢さを反省することができるだろう?

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