信仰と政治の領域

 信仰はまったく個人的なものである。そのため信仰にとっては、法も警察も必要ないはずで、他者に介入することも他者の介入を受けることもない。あるのは自分の良心だけである。内にある良心が、外にあるどんな法や警察よりも厳しく、自分の心を問いつめるのである。「神による裁き」だとか、地獄とかいったものとはじっさい、この「良心の呵責」の物質的表現にほかならない(そのため、信仰を持たず、したがって良心もない人間にとっては、天国も地獄もないであろう)。

 信仰が個人的なものでなくなったとたん、それは信仰ではなく、政治の(もしくは戦争の)領域へと侵入していく。そこで問題となっているのは、自分ではない者との共生というだけではなく、自分と意を同じくしない者との共生である。あらゆる僭主的な試みはすべて、この「他者との共生」を放棄している。これはもはや神を仰いでいるのではなく、神と等しくなろうとしているのである(神を非難することと、自らを神と等しくした人間を非難することとは、とかく混同されがちである。だがじっさい、その二つはまったく異なるというだけでなく、反対のことでさえある)。

 政治の領域において、「複数のもの」が机にあるということがどれほど大事であるか、は歴史が教えてくれるだろう。知性、合理的な推論、計算によって考えられた政治体はどれも、「一つのもの」がすべてを決めるような具合であり、これはまるで人間が神であるかのようにふるまうことである。しかし当然のことだが、人間はだれも神ではないし、現実は理想のようには動いてくれない。政治の領域では、神を信じるということよりむしろ、人間はだれも神ではないということ(それでもこれは神を認めないことには始まらないように思う)を、その基礎としなければならない。

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